美術・ART
July 21, 2008
アンジュラン・プレルジョカージュ『メディアの夢』『MC14/22』
アンジュラン・プレルジョカージュの「ル・パルク」でのアプローチ・コンセプトに惹かれて、メディアの夢、MC14/22も購入して観てみました。
まずmc14/22の感想から。
というのもチャコットwebマガジンの批評文?がかなり酷いものと思い。
ディケンズがラファエル前派を徹底的に否定して(表現やコンセプトを理解しようともせず)いたのを彷彿とさせる記事だったので、私なりの解釈を書いてみたいと思ったからです。
まず冒頭、儀礼的に男性が男性の身体を洗う場面。
これは洗礼者ヨハネとイエスの最初のバフテスマを象徴しているかのようですが、儀式的というよりも、どこか冷厳な親密さを帯びています。
また男性ダンサーの身体を捩るような、脱力の場面。
この身体フォルムは、長らく宗教画の題材であった「十字架降下」「十字架昇化」のフォルムと同じビジョンをとっている。
先に、プレルジョカージュのコンセプトを云うならば、それは「体感・体験」の再起を観る者に与えること。「ル・パルク」での愛の真摯ゆえの苦しさ、メディアの夢での絶望、胸の潰れるような悲痛さ、怒り、そしてMC14/22は、十二使徒の苦悩と痛み、イエスの死の葛藤を目の当たりにしたときの衝撃、その感覚をつれてくること、思い出させる事、をコンセプトにしている気がする。
これはキリスト教のというよりも、普遍的な罪悪の感覚に近い。
観ているだけで、加害者であるような、何もできなさを、拘束されたダンサーは体現してみせる。受難とは、目の当たりにした者が抱く感覚である。
最後の晩餐から、十字架に掛けられる間、12使徒たちは、自らと師を裏切り、それを傍観するのみだった。聖書は文学でもあるから、その描写のシンプルさと感情、感覚に訴える物語性が深い。
ダンサーたちが次々と飛び降りていくシーンは、殉教を思わせ、逆さに落ちていく様は、逆さ磔となったペテロを思わせる。
受難そのものは、歌い上げるダンサーに繰り返し身体のあちこちにダメージを与えて途絶えさせようとする行為によって、悲痛さを出現させる。表現ではなく、その痛みや苦しみ自体をアンジュラン・プレルジョカージュは「出現」させるのだ。
だから、そのような他者の苦しみや境遇には関心を持ちたくないと思う人々の眼にはそれは目障りに感じるのだろう。
机が一列に並べられたシーンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の遠近法空間が、青白いライトだけで演出されていた。
(遠近法一列に12使徒を並べる構図は、レオナルドが最初に描いたと云われている)
同性愛的なシーンとも書かれている部分があるが、どちらかといえば、キリスト教伝統は同性愛を認めてはいないだろうが、根源的な部分で、師に対する弟子の無私無欲な関係、共同体生活、霊的な一体感によって培われた部分がある。しかも、キリストの死や苦痛は、マニエリスムなど時代によっては苦痛よりも快楽・恍惚の表情をもつ甘美な裸体画として描かれていた側面がある。この事はとても複雑な部分問題を孕む。プレルジョカージュは、苦痛を甘美なものとは描かない。この事は、もう何度か作品をみたら違う考えが浮かぶのかもしれない。
『メディアの夢』はまた次回に語りたい。アニエス・ジロー以外のエトワールがこのメディアを演じることができるのだろうか。できるなら、おそらくジローの解釈とは異なるメディア像になるだろう。地母神的な母親像。それは「聖母」の概念が生まれる前からあったものだろう。
関心がつきない2作だが、身体の躍動や美といったものを十分に発揮できるシーンが少ないのは確かでもある。
アンジュランの作品は2008年エトワール・ガラでも2つ踊られるのでとても待ち遠しい限りです。レティシア・プジョルのル・パルクでの透明感がとても良かったので、「受胎告知」を観られるのが今から待ち遠しい限りです。
まずmc14/22の感想から。
というのもチャコットwebマガジンの批評文?がかなり酷いものと思い。
ディケンズがラファエル前派を徹底的に否定して(表現やコンセプトを理解しようともせず)いたのを彷彿とさせる記事だったので、私なりの解釈を書いてみたいと思ったからです。
まず冒頭、儀礼的に男性が男性の身体を洗う場面。
これは洗礼者ヨハネとイエスの最初のバフテスマを象徴しているかのようですが、儀式的というよりも、どこか冷厳な親密さを帯びています。
また男性ダンサーの身体を捩るような、脱力の場面。
この身体フォルムは、長らく宗教画の題材であった「十字架降下」「十字架昇化」のフォルムと同じビジョンをとっている。
先に、プレルジョカージュのコンセプトを云うならば、それは「体感・体験」の再起を観る者に与えること。「ル・パルク」での愛の真摯ゆえの苦しさ、メディアの夢での絶望、胸の潰れるような悲痛さ、怒り、そしてMC14/22は、十二使徒の苦悩と痛み、イエスの死の葛藤を目の当たりにしたときの衝撃、その感覚をつれてくること、思い出させる事、をコンセプトにしている気がする。
これはキリスト教のというよりも、普遍的な罪悪の感覚に近い。
観ているだけで、加害者であるような、何もできなさを、拘束されたダンサーは体現してみせる。受難とは、目の当たりにした者が抱く感覚である。
最後の晩餐から、十字架に掛けられる間、12使徒たちは、自らと師を裏切り、それを傍観するのみだった。聖書は文学でもあるから、その描写のシンプルさと感情、感覚に訴える物語性が深い。
ダンサーたちが次々と飛び降りていくシーンは、殉教を思わせ、逆さに落ちていく様は、逆さ磔となったペテロを思わせる。
受難そのものは、歌い上げるダンサーに繰り返し身体のあちこちにダメージを与えて途絶えさせようとする行為によって、悲痛さを出現させる。表現ではなく、その痛みや苦しみ自体をアンジュラン・プレルジョカージュは「出現」させるのだ。
だから、そのような他者の苦しみや境遇には関心を持ちたくないと思う人々の眼にはそれは目障りに感じるのだろう。
机が一列に並べられたシーンは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の遠近法空間が、青白いライトだけで演出されていた。
(遠近法一列に12使徒を並べる構図は、レオナルドが最初に描いたと云われている)
同性愛的なシーンとも書かれている部分があるが、どちらかといえば、キリスト教伝統は同性愛を認めてはいないだろうが、根源的な部分で、師に対する弟子の無私無欲な関係、共同体生活、霊的な一体感によって培われた部分がある。しかも、キリストの死や苦痛は、マニエリスムなど時代によっては苦痛よりも快楽・恍惚の表情をもつ甘美な裸体画として描かれていた側面がある。この事はとても複雑な部分問題を孕む。プレルジョカージュは、苦痛を甘美なものとは描かない。この事は、もう何度か作品をみたら違う考えが浮かぶのかもしれない。
『メディアの夢』はまた次回に語りたい。アニエス・ジロー以外のエトワールがこのメディアを演じることができるのだろうか。できるなら、おそらくジローの解釈とは異なるメディア像になるだろう。地母神的な母親像。それは「聖母」の概念が生まれる前からあったものだろう。
関心がつきない2作だが、身体の躍動や美といったものを十分に発揮できるシーンが少ないのは確かでもある。
アンジュランの作品は2008年エトワール・ガラでも2つ踊られるのでとても待ち遠しい限りです。レティシア・プジョルのル・パルクでの透明感がとても良かったので、「受胎告知」を観られるのが今から待ち遠しい限りです。
May 26, 2008
パリオペラ座バレエ「ル・パルク」
パリオペラ座バレエ「ル・パルク」を観にいってきました。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。
プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。
コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる(いやできないかもしれない不可能さ)をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・
実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。
ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。
沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。
そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性(共に意識的な人間存在)が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。
まだまだ書きたいことはあるが、第3幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか?肉体、生きた身体を物質化する振付(と呼んでよいのだろうか)は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。
マニュエル・ルグリとレティシア・プジョルが主演。
振付はアンジュラン・プレルジョカージュ。
プレルジョカージュの作品は観たことがなく、オペラ座、ルグリ、オーチャードでオケ付き、モーツァルトの楽曲、フライヤーが美しかったことなどで行きたいと思った作品ですが、一番の理由はオペラ座のクラシック・バレエやロマンティック・バレエは見ごたえがあるが、もっとも見ごたえがあるのは実はコンテンポラリー、と最近は思っているのです。
コンテンポラリーは、振付がモダン、世界観がモダンということとは全く違う。
振付は形式ではなく、表現そのものであり、世界観はダンサーの動きと肉体、舞台配置と音楽によって、「現象」となるのである。
上演され、観ている側は舞台をみているのではあるが、まったく異なった次元を目の当たりにする。おそらく、深層心理学や現代思想やシュルレアリズム文学が文字記述だけで表現できる(いやできないかもしれない不可能さ)をまさに身体で視覚的・体感的に表現する、というか「現象」させてしまうのだ・・・・
実はこのような光景ともいうべき舞台をみることはそれほどはない。
コンテンポラリーは振付を単にトレースするだけでは、それは人体の機械論をなぞっているにすぎない。
振付を身体の技術としてマスターし、それを解り、自分がどのような動きと表情によって世界を構築し、また不動と思われた概念をずらしていくかを「知っていなくては」ならないだろう。そういった意味で、パリオペラ座のコンテンポラリー作品は特別である。
ルグリはもちろん良かったが、レティシア・プジョルは素晴らしかった。
少年のようなというと語弊があるが、実存的心理状態にある「私という揺らぎ」そんな存在感だった。
沢山書きたいことはあるのだが、一幕から。
一幕の女性ソロは音楽性豊かで素晴らしかったと思う。拍手できないのが残念なほどモーツァルトの曲にあっていた。ふしぎとあっているというような言い方が当てはまる。
椅子が放射状に並ぶまでのパワーバランスが面白い。
面白いというのは、解説にあった「椅子取りゲームのようなユーモラスな動き」が理由ではない。一つの椅子がなくなる前は、秩序は調和して静の世界なのである。
世界のパワーバランスとは、「自分の場所」を必死に求めることで、大きく変動してしまう。残酷なほどに他を追い払い、自らの場所を確保しようとする。それをユーモアの中に取り入れてしまうのはさすがとしかいいようがない。
17世紀の衣装での動きは、衣装と動きが計算されていて、モダンで斬新なのに優雅である。衣装が美しくみえる動きなのだ。
そして、あれだけ固執した「椅子」「場」も時が過ぎれば、瓦礫のようにうち捨てられ、うずたかく積まれ、人々は去る。熱狂がうそのように。
そういったホッブス以来の西洋における「力」の捉え方を視覚的に表している。
このようにパ・ドゥ・ドゥ部分は男女の関係性(共に意識的な人間存在)が哀しみと愛と衝動として細やかに描かれるのだが、他の踊りは概ね概念表現に徹している。
とくに庭師たちの幕の最初に挿入されるパートは暗示的であり、世界観・自然観を示す。
まだまだ書きたいことはあるが、第3幕の、庭師達とレティシア・プジョルによるパートは言葉がみつからない。最初「眠っている女」の静寂がたしかにそこにあるのに、まったく違うものに見えてくる。肉体と精神が一元なものとしたらその関係性とは何なのか?肉体、生きた身体を物質化する振付(と呼んでよいのだろうか)は圧巻である。一言で言えない物事が、目の前に展開していたのだから。
May 16, 2008
本にまつわる話
the most astonishing picture-book; and all new and true.
Charles Dickens.
このディケンズの短編の表現にはっとさせられた。
素晴らしい絵本たちに出会う子供時代。
子供たちにとって、それらは御伽噺・物語でも「本当のことで・あたらしいこと」に感じられ、そして楽しく生き生きとした体験となるのだ。
まるで本当に体験するように、本を通じて、出会う物語についてシンプルに描写されている。
そして以前図書に関する講演で聞いたことを思い出したのだが、丁度小学生の4・5年生ごろから、いわゆるノンフィクションや科学・自然絵本などに興味が移っていくらしい。
ディケンズの描写から、やはり幸福な子供時代という時期に、本を通じて出会う楽しさの原体験が作られるのだろうと思う。
ディケンズの絵本の描写は、美しい自然の中で、雨だれを見たり、風の音を聞いたり、雪が降り積もるのを眺めていたり、しかも、とても創造性の豊かな中で--そんな体験とともに語られるのが「絵本」と「物語」の話なのだ。
ディケンズの時代ではこれは子供時代の当たり前のことだったのだろう。
では今はどうなのだろうか。
本を通じて得られる楽しみ、新しい話、物語・・私の場合は歴史好きなのもありそういった分野で新しい発見や、世界観を新たにさせてくれる本や文献を読むのはとても楽しい。そういう「楽しみ」をもてるのもやはり子供時代のある時期にある程度もてるかもてないか決まってしまうのかもしれない。
私も多くの絵本や童話を手にした。多くは今はおそらく廃刊されている、ヨーロッパや世界の童話や伝承などの本だった。絵もすばらしく、その風土や文化が伝わるような色彩とデッサン、風景がその土地の画家によって描かれていた本だった。
おそらく小学館から出ていたシリーズだったと思うのだが、今そのような本は書店にはない。話がすきでも、色や絵柄があまりにもアニメ調の平面的なもので、デッサンもデフォルメされすぎている。これは原風景にはならないだろう。
人が考えるきっかけとなるのは、ヤスパースによれば「驚き」がもっとも最初の動機である。異文化を感じる絵柄、すくなくとも物語の世界観を写しているような絵でなければ、挿絵の意味がない。文字という像を持たない表記から、イメージを獲得する経験がないと、文字も絵も解読できなくなるのではないだろうか。
ところで今、読んでいるのは、山形孝夫氏の「聖書物語」(旧約・新約)である。
山形孝夫氏はフォークロアな面やオリエント史の立場を含めて書かれていて大変面白い。今まで「レバノンの白い山」なども読んだが、文学と伝承の記述としての「聖書」がまとめられている。文字記述として残っていない、古いオリエントの伝承や神話も、姿を変えてそこには痕跡を残しているのがわかる。
そして嬉しいのは素晴らしい絵画がそこに添えられている。
ルネサンス、バロック、マニエリスム、中世、北方ルネサンスの代表的な絵画。
絵画には美術史的なシンプルで解りやすい解説も載っている。
カラバッジオの「聖マタイの召命」(ローマで実物をみたときはしばらく立ち尽くしてしまった)、モローの「出現」(サロメ)、シャルル・ルブランやカラッチ、本とホルストなどなど。
90年代の良書がまた多く出版されていたときならば、おそらく3500円以上のハードカバーで出版されるべき本だと思う。勿論現在の版形でも手ごろでみやすいが。
というのも、昨年、巌谷國士さんの関連であるギャラリーで聞いた話で、ハード体裁で出したいが、なかなか最近の出版業界ではできなくなっているという話を聞いたのを思い出したからである。
出版ではますます「売れる」「売れない」という基準が多数を占めているのは残念なことだと思っている。企画段階から、「売れる理由」「類似本」を理由として重視する傾向がある。
それでは、良い本は出版されないだろう。
現実に欲しいと思って買いたいと思う本がほぼ絶版や重版未定のことが多い。
価値ある本が今後も多く出版されていて欲しいものだと思う。
Charles Dickens.
このディケンズの短編の表現にはっとさせられた。
素晴らしい絵本たちに出会う子供時代。
子供たちにとって、それらは御伽噺・物語でも「本当のことで・あたらしいこと」に感じられ、そして楽しく生き生きとした体験となるのだ。
まるで本当に体験するように、本を通じて、出会う物語についてシンプルに描写されている。
そして以前図書に関する講演で聞いたことを思い出したのだが、丁度小学生の4・5年生ごろから、いわゆるノンフィクションや科学・自然絵本などに興味が移っていくらしい。
ディケンズの描写から、やはり幸福な子供時代という時期に、本を通じて出会う楽しさの原体験が作られるのだろうと思う。
ディケンズの絵本の描写は、美しい自然の中で、雨だれを見たり、風の音を聞いたり、雪が降り積もるのを眺めていたり、しかも、とても創造性の豊かな中で--そんな体験とともに語られるのが「絵本」と「物語」の話なのだ。
ディケンズの時代ではこれは子供時代の当たり前のことだったのだろう。
では今はどうなのだろうか。
本を通じて得られる楽しみ、新しい話、物語・・私の場合は歴史好きなのもありそういった分野で新しい発見や、世界観を新たにさせてくれる本や文献を読むのはとても楽しい。そういう「楽しみ」をもてるのもやはり子供時代のある時期にある程度もてるかもてないか決まってしまうのかもしれない。
私も多くの絵本や童話を手にした。多くは今はおそらく廃刊されている、ヨーロッパや世界の童話や伝承などの本だった。絵もすばらしく、その風土や文化が伝わるような色彩とデッサン、風景がその土地の画家によって描かれていた本だった。
おそらく小学館から出ていたシリーズだったと思うのだが、今そのような本は書店にはない。話がすきでも、色や絵柄があまりにもアニメ調の平面的なもので、デッサンもデフォルメされすぎている。これは原風景にはならないだろう。
人が考えるきっかけとなるのは、ヤスパースによれば「驚き」がもっとも最初の動機である。異文化を感じる絵柄、すくなくとも物語の世界観を写しているような絵でなければ、挿絵の意味がない。文字という像を持たない表記から、イメージを獲得する経験がないと、文字も絵も解読できなくなるのではないだろうか。
ところで今、読んでいるのは、山形孝夫氏の「聖書物語」(旧約・新約)である。
山形孝夫氏はフォークロアな面やオリエント史の立場を含めて書かれていて大変面白い。今まで「レバノンの白い山」なども読んだが、文学と伝承の記述としての「聖書」がまとめられている。文字記述として残っていない、古いオリエントの伝承や神話も、姿を変えてそこには痕跡を残しているのがわかる。
そして嬉しいのは素晴らしい絵画がそこに添えられている。
ルネサンス、バロック、マニエリスム、中世、北方ルネサンスの代表的な絵画。
絵画には美術史的なシンプルで解りやすい解説も載っている。
カラバッジオの「聖マタイの召命」(ローマで実物をみたときはしばらく立ち尽くしてしまった)、モローの「出現」(サロメ)、シャルル・ルブランやカラッチ、本とホルストなどなど。
90年代の良書がまた多く出版されていたときならば、おそらく3500円以上のハードカバーで出版されるべき本だと思う。勿論現在の版形でも手ごろでみやすいが。
というのも、昨年、巌谷國士さんの関連であるギャラリーで聞いた話で、ハード体裁で出したいが、なかなか最近の出版業界ではできなくなっているという話を聞いたのを思い出したからである。
出版ではますます「売れる」「売れない」という基準が多数を占めているのは残念なことだと思っている。企画段階から、「売れる理由」「類似本」を理由として重視する傾向がある。
それでは、良い本は出版されないだろう。
現実に欲しいと思って買いたいと思う本がほぼ絶版や重版未定のことが多い。
価値ある本が今後も多く出版されていて欲しいものだと思う。
November 13, 2007
ヴェネチア絵画展 フェルメール国立新美術館
10月は嫌になるほど時間がなく.
ヴェネツィア展には行けました。でも最終日だったのでティッツアーノとカナレット関連の品物は全て売り切れてた・・酷い!しかしパルマ展もそうだがヴェネチア展もあまり流行らなかったみたいですね。ヴェネツィア展はそれほど完成度の高い作品はなかったので仕方ないけど。パルマ展は本当にこれを見ないでどうするというものばかり・・・日本の展覧会趣味って本当に宗教画とは縁遠いものしか好きじゃないよね・・・でもそれならイタリア旅行で無理矢理ウフィッツィ美術館とかいかなくてもいいではないか。宗教画というよりも聖書モチーフはあれはヨーロッパ語圏の古典と思ったほうがよい部分があると思います。
テキスト・テーマから描いたイメージ、ストーリーや象徴はすでに記号・共通認識になっているから伝わりやすい・意外と個性が発揮できるという具合だから凄いものとそうでもないものが一目瞭然でもあるし。古くてもモダンなもの、時を超えているものがはっきり浮かび上がる。
日本人と米国人(世界のど田舎と云われている)が興味もないのにカトリック文化を見にいかなければイタリアももっと行きやすいのでは・・・というか時間とお金があってわざわざイタリアやフランスに行くのに少しは調べて行ったらと思ってしまう事が多いんですが・・・
前から何か即物的な目的や私利私欲だけの為できる事って大したことではないけど何か才能や能力の限界以上を事をしてしまうことって・・・やっぱりバッショネイト・・パトス的なものなんだろうと思う。
それとやはり初期ルネッサンスは抑圧されていた古代思想・文化に触れて驚喜したんでしょう・・その感動の仕方に感動する・・・。ラファエロ、レオナルド、ミケランジェロがこぞって仕事をしてたそれは相互に影響をあたえた結果だと思う。
イタリアの凄さ、唯一のものはルネサンスで完成と調和を見て、その後解体されていくことの凄さだそうです。自分の為だけにはそれほど一生懸命にはなれない、というか目に見えない力の作用は確かにある。
フェルメールは行けました。しかし解説パネルに相変わらず??となってしまう。
どうしてこう、技法と物質論なんだろう、いつも。
美学専攻ってこういう事で分析するのが最先端なのでしょうか。
同じ技術を用いても再現できない・他とは明かに違う、その部分こそが重要なんですが・・そういう、曖昧さを排斥する事が知識だとは到底思えないのです。
そして他の風俗画とは時間の捉え方がまったく違う、つまり見えてくる世界が違う。日常の中の普遍・永遠性をそこに持っている。
驚いたのはもの凄く明るい絵なのだが陰影もとても明るいのです。
暗さを表現しつつコントラストの為に明るい光を描き出すのは理屈はわかるのですが明るい室内で暗さとの対比なしでこの光を描く技術って・・・
近くでみてわかったことは、適度かつ非常に精巧なバランスでディフォルメされていることです。だから離れてみた時にものすごく印象が繊細だし遠くでみても印象がまったく同じ。。。
天野可淡展にはいけなかった。マリアは会場としては狭すぎて行くのが気が退けてしまった、というのと銀線でやった回顧展があまりにも衝撃だったのでその感覚のままでいいという気持ちが強かったせいもあります。
山本六三展の案内も来ました。でも行けないかもしれない。
11月半ばだったら行けたのに。
ヴェネツィア展には行けました。でも最終日だったのでティッツアーノとカナレット関連の品物は全て売り切れてた・・酷い!しかしパルマ展もそうだがヴェネチア展もあまり流行らなかったみたいですね。ヴェネツィア展はそれほど完成度の高い作品はなかったので仕方ないけど。パルマ展は本当にこれを見ないでどうするというものばかり・・・日本の展覧会趣味って本当に宗教画とは縁遠いものしか好きじゃないよね・・・でもそれならイタリア旅行で無理矢理ウフィッツィ美術館とかいかなくてもいいではないか。宗教画というよりも聖書モチーフはあれはヨーロッパ語圏の古典と思ったほうがよい部分があると思います。
テキスト・テーマから描いたイメージ、ストーリーや象徴はすでに記号・共通認識になっているから伝わりやすい・意外と個性が発揮できるという具合だから凄いものとそうでもないものが一目瞭然でもあるし。古くてもモダンなもの、時を超えているものがはっきり浮かび上がる。
日本人と米国人(世界のど田舎と云われている)が興味もないのにカトリック文化を見にいかなければイタリアももっと行きやすいのでは・・・というか時間とお金があってわざわざイタリアやフランスに行くのに少しは調べて行ったらと思ってしまう事が多いんですが・・・
前から何か即物的な目的や私利私欲だけの為できる事って大したことではないけど何か才能や能力の限界以上を事をしてしまうことって・・・やっぱりバッショネイト・・パトス的なものなんだろうと思う。
それとやはり初期ルネッサンスは抑圧されていた古代思想・文化に触れて驚喜したんでしょう・・その感動の仕方に感動する・・・。ラファエロ、レオナルド、ミケランジェロがこぞって仕事をしてたそれは相互に影響をあたえた結果だと思う。
イタリアの凄さ、唯一のものはルネサンスで完成と調和を見て、その後解体されていくことの凄さだそうです。自分の為だけにはそれほど一生懸命にはなれない、というか目に見えない力の作用は確かにある。
フェルメールは行けました。しかし解説パネルに相変わらず??となってしまう。
どうしてこう、技法と物質論なんだろう、いつも。
美学専攻ってこういう事で分析するのが最先端なのでしょうか。
同じ技術を用いても再現できない・他とは明かに違う、その部分こそが重要なんですが・・そういう、曖昧さを排斥する事が知識だとは到底思えないのです。
そして他の風俗画とは時間の捉え方がまったく違う、つまり見えてくる世界が違う。日常の中の普遍・永遠性をそこに持っている。
驚いたのはもの凄く明るい絵なのだが陰影もとても明るいのです。
暗さを表現しつつコントラストの為に明るい光を描き出すのは理屈はわかるのですが明るい室内で暗さとの対比なしでこの光を描く技術って・・・
近くでみてわかったことは、適度かつ非常に精巧なバランスでディフォルメされていることです。だから離れてみた時にものすごく印象が繊細だし遠くでみても印象がまったく同じ。。。
天野可淡展にはいけなかった。マリアは会場としては狭すぎて行くのが気が退けてしまった、というのと銀線でやった回顧展があまりにも衝撃だったのでその感覚のままでいいという気持ちが強かったせいもあります。
山本六三展の案内も来ました。でも行けないかもしれない。
11月半ばだったら行けたのに。
August 29, 2007
オディロン・ルドン
会期間際にルドン展に行くことができました。
行った人の話を聞いたり読んだりしてると「・・・空いてる」というので行ってあげないとならない!と思ったのです。変なプレッシャー。
しかしエッシャー展が盛況だったからといってルドンも同じ方法で無理矢理アプローチすることもあるまい、と思った。良さが薄れる。そこらへんのブロガーでもかかないような主催者の挨拶コメントに??という気持ちになったのですが、展示内容はとっても充実でした。嬉しい誤算。
ちょっとクリエイター・デザイナー系とそんなムードを志向する客に媚びすぎなのではないだろうか。勿論にぎわうのはいいのだけど。
ルドンは異型の形というよりも、フォルムよりも形にとらえきれないものを描こうとしてると思うので・・・かろうじて姿にするならばというようなものじゃないかな。心象の移ろいの影のようなもの。
ルドンの黒の作品は・・・これはもう印刷と実物とでは線・・というか繊細さがまったく違う。別物。すごい。
描いてあるというよりも、出現してるようなぼやっとした輪郭が凄い・・・兆候というべきなのか・・・
黒一色なのに色彩を感じる、というか黒一色なのにむしろ光を感じる。
「聖アントワーヌの誘惑」の黒の作品が一群が特に・・・
テキストと絵画(ヴィジュアル)の相互的な欲求をやはり求めることがあるんだと思う。テキスト(現前しないもの)絵・立体(現前するもの)あと音楽・・・相互の世界が可能なものへの欲求が創る動機になることが多いと思うときがあるのですが、今回もそれを感じた。
残るものは理由がそうさせてるからでは勿論なくて、何かそれ以上のものがあるから惹かれる理由を探そうとするのだろう。
例によって欲しいカードの類がまったくありませんでした。
行った人の話を聞いたり読んだりしてると「・・・空いてる」というので行ってあげないとならない!と思ったのです。変なプレッシャー。
しかしエッシャー展が盛況だったからといってルドンも同じ方法で無理矢理アプローチすることもあるまい、と思った。良さが薄れる。そこらへんのブロガーでもかかないような主催者の挨拶コメントに??という気持ちになったのですが、展示内容はとっても充実でした。嬉しい誤算。
ちょっとクリエイター・デザイナー系とそんなムードを志向する客に媚びすぎなのではないだろうか。勿論にぎわうのはいいのだけど。
ルドンは異型の形というよりも、フォルムよりも形にとらえきれないものを描こうとしてると思うので・・・かろうじて姿にするならばというようなものじゃないかな。心象の移ろいの影のようなもの。
ルドンの黒の作品は・・・これはもう印刷と実物とでは線・・というか繊細さがまったく違う。別物。すごい。
描いてあるというよりも、出現してるようなぼやっとした輪郭が凄い・・・兆候というべきなのか・・・
黒一色なのに色彩を感じる、というか黒一色なのにむしろ光を感じる。
「聖アントワーヌの誘惑」の黒の作品が一群が特に・・・
テキストと絵画(ヴィジュアル)の相互的な欲求をやはり求めることがあるんだと思う。テキスト(現前しないもの)絵・立体(現前するもの)あと音楽・・・相互の世界が可能なものへの欲求が創る動機になることが多いと思うときがあるのですが、今回もそれを感じた。
残るものは理由がそうさせてるからでは勿論なくて、何かそれ以上のものがあるから惹かれる理由を探そうとするのだろう。
例によって欲しいカードの類がまったくありませんでした。
December 04, 2005
北斎展・国立博物館・平成館
北斎展Kさんと約束して行ってきました。
20分待ちもなんのその。。。観る価値大。圧倒的です。
作品の分散具合も改めて衝撃を受けました。
ボストン、メト、大英、あと収集者の遺言で今回も出展されなかったワシントンのコレクション。
北斎という人自体もかなり面白い人で、江戸文化の外部までも感じさせる。風俗という内側と、絵画で描き出された外部。
単純に天才なのですが、その枠すら納まらない感も強く。
人ごみや展示がえでよく見られなかった絵もあり(というかゆっくりは観ていられない)図録を観るのが楽しみなので感想はまた後に書きたいな。
歌舞伎をまた見始めたりしてるので、絵の題材などもモチーフの意味やら暗喩などをちょっと解るものもあり、面白い。
しかし、「若衆」の英訳が Young man だったのがあたりまえといっちゃなんだが、もう少しなんとかならんものかな。
ニーチェの英訳版では「超人」がsuperman.なわけですが、ちょっと納得はいきません。英語はどこまでも物事を名詞化してしまうなぁ。
こうなると北斎の重要な作品が分散してることに大丈夫なのか?と心配してしまう気持ちにもなるってもんです。
日本での絵画の展示パネルの表記も相当ずれてる事が多いですけれど。
20分待ちもなんのその。。。観る価値大。圧倒的です。
作品の分散具合も改めて衝撃を受けました。
ボストン、メト、大英、あと収集者の遺言で今回も出展されなかったワシントンのコレクション。
北斎という人自体もかなり面白い人で、江戸文化の外部までも感じさせる。風俗という内側と、絵画で描き出された外部。
単純に天才なのですが、その枠すら納まらない感も強く。
人ごみや展示がえでよく見られなかった絵もあり(というかゆっくりは観ていられない)図録を観るのが楽しみなので感想はまた後に書きたいな。
歌舞伎をまた見始めたりしてるので、絵の題材などもモチーフの意味やら暗喩などをちょっと解るものもあり、面白い。
しかし、「若衆」の英訳が Young man だったのがあたりまえといっちゃなんだが、もう少しなんとかならんものかな。
ニーチェの英訳版では「超人」がsuperman.なわけですが、ちょっと納得はいきません。英語はどこまでも物事を名詞化してしまうなぁ。
こうなると北斎の重要な作品が分散してることに大丈夫なのか?と心配してしまう気持ちにもなるってもんです。
日本での絵画の展示パネルの表記も相当ずれてる事が多いですけれど。
July 14, 2005
原美術館(品川)
お友達と原ミュージアムへ。(後日記入)品川の住宅地にある原邸なので、美術館へ行くのと古くからある家を訪ねるのと両方の気分になれる不思議な場所ですね。
森村泰昌のレンブラントのセルフポートレイトは見逃していた作品なのでそれも見られて良かったです。
原といえばバウハウス建築、そしてcafe D'art ですが、穴子と浅葱・三つ葉の入ったしょうゆとバルサミコのパスタが美味しかった。
ベースはペペロンチーノらしいのですが、しょうゆ+バルサミコの組み合わせに感動。合いますね。
美術館併設のカフェにしては凄くメニューが充実してるんですよね。料理のヒントを貰うこともしばしば。
帰宅後、穴子パスタを再現したくて翌日作りました。
ただし、至近のスーパーには穴子はなく、しかたなくウナギ。
軽く白ワインで蒸してから使用。おいしかった。
夏はたびたび作りたい一品!
July 06, 2005
植物画の至宝展/東京芸大美術館/旧奏楽堂
植物画の至宝展へ行ってきました。額絵は無かったものの、ポストカードは充実していました。
クリアファイルも綺麗でした。
大航海時代に収集された植物のボタニカルアート。18世紀イギリスの王室が雇用していた画家らの絵が見事。もも、無花果、葡萄、胡桃。
そしてサザンカや椿。
植物画は写真技術の発達に伴い次第に役割を負えて鑑賞用となったが、写真よりも優れた画のほうがよりそのものに近い。
写真は、万能ではない。
地下2階では明治の画家の宮殿天井画の下絵展が同時に開催されていた。
こちらは、近づいて見ると植物・花をデフォルメして文様として描くことで、花や植物の魅力と特徴を鮮明に浮き上がらせている。
対照的な展示で興味深い。
円形にコラージュされた花々は日本の四季や情緒の代名詞にもなる花々。
円形の額絵を購入したので、部屋に飾りたいと思う。
因みに、北斎の風景画などを洋の額装にしてコロニアル風の部屋に飾るのが好き。ウィーンのジャポニズムのようなアンバランスがしっくり来る雰囲気。
帰りに奏楽堂へ寄ってみました。
こんなに上野に来てるのに、寄ったのは初めて。
音楽ホールのたたずまいがなんとも落ち着く空間。
実際にホールで演奏されたブランデンブルグの音が静かに流れていました。
April 12, 2005
ベルリンの至宝展
ベルリンの至宝展へ行ってきました。
すごい見ごたえです。ここ数年で1番。
フリードリヒの「孤独な木」が目当てだったのですが、とにかく古代エジプトからギリシア・ローマ、中世、イスラム、ドイツロマン主義までとにかく凄いです。まさに至宝。

フリードリヒの絵画3点、シンケルの絵画、なんども観てしまいました。
図録や写真ではみえなかった陰影や光、遠くの集落や廃墟などもみえます。
深淵な色彩が写真とはまるで違います。
もういちど観にいくでしょう。
ドイツロマン主義については図録に掲載さていた解説が大変面白かったです。
これについてはもういちどサイトに感想をのせたいと思います。
ここ数年来の自分のテーマにも近いもので目が覚めました。
圧巻なのがエジプト美術のコレクションです。
これね、凄いですよ!ほんとうに凄い。
平成館は広いのでゆったり眺めることができて素晴らしい体験でした。
中世ヨーロッパ絵画と彫刻も素晴らしかった。
使徒マタイ像。
また宗教画をみながら、ヨーロッパの宗教と内的体験、について感想が沸いてくる。思うに、「神」を見える形にした聖像や宗教画は専ら人々の祈りを集めていたのだとうと。そして、人は皆その祈り(内心の吐露)の間だけ「個人」であることを許されていたのではないかと。「個」の思想の目覚めの根源は「祈り」であり見えないものとの「対話」なのかもしれない。
宗教が哲学や思想と密接に関わっていることと「無宗教状態」との違いは実は大変に大きな隔たりがあるのではないだろうか。
などと考えてしまう。今日観た絵画はそのような力を持っていた














