パリオペラ座日本公演2020<オネーギン>に行ってきました。(3月6日ソワレ)2020年春にオペラ座公演があるよ、丁度一年前に娘がフランス留学+パリ小旅行に行ったときに、ガルニエ宮を案内してもらい(2017年のログを参照)その時にお話しを聞いてましたが、その後正式にチラシをみたのはおそらく、東京バレエ スカラ座版「海賊」の時。それで演目が「ジゼル」と「オネーギン」と知り、これは絶対にオネーギンには行こうと決めていました。ドロテ・ジルベールのタチヤーナの日にしようと、この日のチケットは早々ととっていました。

少しバレエ版の「オネーギン」について書いておくと、この作品はジョン・クランコ振り付けによる作品で、もっとも有名なのはシュトゥットガルドで上演される。(たしか昨年あたりにBlu−rayもリリースされた)今までアリシア・アマトルトマンのタチヤーナやフリーデマン・フォーゲルのオネーギンを観てきた。そもそも、最初は日本での演目としての認知度が低く、シュトゥットガルドが東京文化会館で上演するときも、男性ダンサーをゲストでマニュエル・ルグリを招いて(彼はパリオペラ座のエトワールである)上演したほどだ。それから通常の引っ越し公演としてようやく定着し、オペラ座公演でのファウェル(エトワールの引退公演)でもオネーギンを選ぶダンサーが増えてきた。これはよくインタビューなどで、ルグリや二コラ・ル・リッシュが言及していたことだが、ダンサーは若いうちは身体は自由に動く、しかし表現や人間の心理、内面の表現は定年間近(オペラ座の男性ダンサーは40歳定年)でないと深まらない、この両者のギャップが悩ましいことだといっている。(年齢が上がってから、踊るのが辛い演目として、たしかルグリは「眠り」のデジレ王子やライモンダの「ジャン・ド・プリエンヌ」をあげていたと思う。
私が最初に「オネーギン」をみたのは、ルグリのガラ公演でのルグリとルディエールの3幕のパ・ド・ドゥであったと思う。この時の印象から、シュトットガルドの全幕公演も観に行くようになった。そして今回の念願の来日全幕公演である。

タチヤーナに関しても、テクニックや優雅さだけでなく、知性、苦悩、葛藤、純粋さ、年齢が変わってからの想い・・・など人間の変化や内面性を重視した表現が求められるのだ。しかしながら、オネーギン役もタチヤーナ役も、ほとんど重力がある地上では不可能なのでは?と思うようなパ・ド・ドゥが2幕と3幕にあるので、身体的にも限度を超えた表現が求められる。そして観客が目にするのは、ドラマチック、それ以上のスペクタルなのだ。

この日のオネーギンは、素晴らしかった。このblogでは★は5つまでしかつけられないが6、7、のレベルである。
オネーギンの特徴としては、クラシックバレエでありつつ、かなりモダンな要素が入っていることだ。いわゆるバレエ・ブランやプティパの形式的な3幕構成とは違い、プロローグの群舞もすばらしいし、3幕幕開きの舞踏会シーンのプロムナードもすばらしい。
舞台構成は、奥行きをいかして、手前、中央、半分紗幕でしきられた舞台奥になっており、さらに、場面転換時には一時幕が下りるものの、時間経過や場の展開はすべて幕前のバレエで構成されている。ダンサーたちがそれぞれソロやパ・ド・トロワで踊るのも見逃せない。
(これはボリショイ版のバヤデールでの、ガムザッティが表れる場面などでも使われている構成だと思う)

オネーギン役はユーゴ・マルシャン。彼のオネーギンをみていて、映画「ラフマニノフ」の世界を思い出した。
オネーギンとは何なのか。もしかすると、去りゆく帝政ロシアでの貴族政を表象しているのかもしれない。文学や文字、手紙と言葉を重視して伝えようとするタチヤーナを彼女が年少かつ自分よりも立場が下がゆえに向き合うことなく、手紙をつきかえし、さらに目の前で破り捨てる。細切れになった手紙の前に呆然とするタチヤーナは二幕でオネーギンの幻影と踊るのだが、この有名なパ・ド・ドゥに関してはもう観て頂くしかない。
ユーゴ・マルシャンが演じたオネーギンは去りゆく帝政ロシアの象徴のようにも見える。
疲れ切って孤独になったオネーギンはタチヤーナに現在の自分の心境を打ち明ける。
しかし時間も機会ももう過ぎ去ったことなのだ....

このドラマは実際に目にしなければ本当の感動は得られない。
そして本当に素晴らしい舞台だった。生きた舞台そのものであり、3幕のオケもまたチャイコフスキーの音楽を最大限に演奏し、この場を作り上げていた。

ある夜会でパートナーの取り合いから、オネーギンは友人レンスキーともみ合いになり、決闘を申し込む羽目に。シュトッゥドガルド版だと、手袋を投げつけるだけだと思うが、オペラ座版は手袋でレンスキーの頬を二回殴打していた。(!)それだけでなく、これもパリオペラ座版ならではだと思うが、夜会に出席している老貴族たちが、これにはびっくり何事が起きたんだ?心臓が止まるかと思った!のようなマイムを背後で繰り広げてして思わず、オペラ座だなあ!と本筋のシリアスさに心打たれていると同時に、ユーモアセンスが入っているところで本当に観るのが忙しかった;(直前に、パリ・オペラ座版のドン・キのDVDを観ていて、一幕のマドリッドの街の人、の小芝居とマイムが本当におかしいのです...ルグリとオーレリー、マリ・アニエスとジャン・ギョーム・バール、キトリの友人二人(おそらくメラニー・ユレル)が素晴らしい踊りをしているときに・・・後ろではもうパリオペならではの素晴らしいマイムのオンパレードなのです。観て貰えばわかるはず...。あまりシリアス一辺倒にしたくないというのがいかにもオペラ座というか何か滑稽な要素がないとね...というようなカンパニーの方針というか!
(ちなみに、オペラ座のドン・キは、街の若者の群舞のなかにマチュー・ガニオやカール・パケットがいたりするので何度みてもいい...です。クピドはクレール・マリ・オスタ)

3幕はとにかくプロムナードの群舞も素晴らしく、そこからクライマックスへ...。

クラシックバレエは基本的に重力からの開放による人間の限界を表現するものであるけれども、オネーギンのパ・ド・ドゥは、力学的な限界も同時に体現し、目に見える形で人間の内面をあらわにする至高のドラマティックバレエであると私は思っている。この日のドロテ・ジルベールとユーゴ・マルシャンをみていてそう思った。

来日公演初期では、ドロテ・ジルベールはマチアス・エイマンと一緒にバランシンのスターズ&ストライプスなどを躍っていてそれも輝かしくてすばらしかったのだが、いよいよオネーギンを完璧に踊り表現するダンサーになったのだ...とそれも感慨深く、一番いいときの彼女を何度も来日公演でみることができてそれも幸せだと感じた。

また以前シュトットガルドでみたときよりも、レンスキーとオリガの踊りがとても多く、見どころがあると感じた。
この日のレンスキーは、ポール・マルク(Paul MarquePaul Marque)、オリガ(は、ジゼルでドゥ・ウィリを躍ったナイス・ドゥボスクNais Duboscq)二人も素晴らしかった。
上述したように全幕公演での重要な場をしめる群舞も素晴らしかった。


https://www.operadeparis.fr/en/artists/ballet/ballet-company

できればパリ・オペラ座版のオネーギンもDVDかBlu−ray化してほしいと思います。


https://www.t-bunka.jp/en/stage/4303/















パリオペラ座版ならではの演出などがプログラムにあるかと思ったのですがそれは見当たらなかった。だが、バレエ版オネーギンについての言及は私も同じことを思っているので、以下に少し引用しておきたい。

「ジョン・クランコがチャイコフスキーのオペラの台本に加えた決定的な変更の一つに、手紙の場面、つまりタチヤーナがオネーギンにあてて手紙を書いている場に、オネーギンを登場させたことだ。(中略)「幸福になるように創られてはいない」男が、人を愛することができる者だと気が付いているのか。確かに、タチヤーナが夢みたオネーギンとの踊りを、オネーギンは最後のパ・ド・ドゥで実際に踊るのだ。クランコは、たった一度の出会いで、タチヤーナにオネーギンの真実を気付かせ、同時に、年老いて目的なく人生をさまよう、かつて冷淡であった男が、なぜ後に突然情熱を感じることができるようになったかを解き明かしている。チャンスを無駄にし、不幸な人生をおくるさまを物語るクランコは再三非難されるが、実はずっとプーシキンに近い。プーシキンの小説の中のタチヤーナは「そして幸せになることができた、手を伸ばせば届くほど、あんなに近くにあったのに...」と泣きながらオネーギンを拒絶するのだから。(パリ・オペラ座バレエ公演プログラムより 本公演プログラムP.34)

なおこのアンゲラ・ラインハルト(Angela Reinhardf)による解説にはチャイコフスキーの音楽とシュトルツェの編曲にも言及されている。














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