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 Sunday 1 March 2020, 15:00 @Tokyo Bunka Kaikan
Leonore Baulac, Germain Louvet, Hannah O'Neill
https://www.nbs.or.jp/english/stages/2020/parisopera/giselle.html





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パリオペラ座バレエ、3年ぶりの来日公演3月1日マチネ公演へ行って来ました。今回の演目は<ジゼル>と<オネーギン>です。東京文化会館とNBSは最大限の注意喚起と対策および観覧を中止した観客への対応も含めてもっとも最善の形をとったと思われます。待ちに待った公演であり素晴らしい舞台を共有できたことが素晴らしいことです。

<ジゼル>はジゼルのヴァリエーションやペザント・パ・ド・ドゥもさることながら、緩急がついたドラマチックな魅力の演目です。ジゼルの狂乱の場は有名ですが(ラ・バヤデールのガムザッティとニキヤの場面くらい演技力が問われる)今回、初めて舞台をみたジェルマン・ルーヴェはバレエの跳躍、テクニックはもちろんだがマイム表現が素晴らしかった。アルブレヒトの演技に感動したのは初めてかもしれない。レオノール・ボラックのジゼルは、無垢で純粋なジゼルに信心深さというか敬虔さが加えられたようなところが魅力だった。ジゼルは純粋さ、天真爛漫さ(これはオーロラ16歳の時の方が求められるかもしれない)、自然さ、素朴な美しさに加えて対照的な信念の強さが求められる。そうでなくては、2幕に繋がらない。死してなお何を護ろうとしたのか。・・・今回のオペラ座バレエはジゼル、アルブレヒトに加えて、ヒラリオンは冷静な観察者、事実をつきつける役であり、アルブレヒトの婚約者であるバチルド姫も高貴さを描いたような表現だった。位階を見せつけるのではなく位階に相応な人という意味であり、大公(クールランド大公)とはこうしたものというような点でも素晴らしかった。つまらないジゼルがあるとしたら、単なる恋愛の結果と死というような陳腐なものになるだろう。
ジゼルとアルブレヒトはそれぞれ惹かれあったのであるし、アルブレヒトはあらかじめ決められたものということや自分の身分に不満があったのかもしれない。(それはアルブレヒトの自由意志の発露かもしれない)バチルド姫は白テンの毛皮がついた外套に憧れたり宝飾品を純粋に喜ぶジゼルに対してメダイのネックレスをあげたりしている。ジゼルは彼女からそれを受け取ったことにとても祝祭的な気持ちになっていてそれが歓喜のピークになる。歓びを踊りで表したいというジゼルに、身体の弱さから静止する母親は彼女の限界を知っており、だからこそ留めおこうと非常に重々しく禁じる。・・・
ヒラリオンはやはり近代的な人間が何か異変に気が付くときの自由意志的なものを重視し、ジゼルはアルブレヒトが身分を偽っていることを公衆の面前で告発する。
(これもつまらないジゼルだと単なる私怨のような形で自分に気を寄せてもらえないヒラリオンのようになってしまうが、オドリック・ベザールのヒラリオンはそうではなかった。彼はジゼルが何もしらずに喜び夢に浸っているが現実的にはどうなのかということを黙っていられなかったのだ)

言葉を用いないバレエは、だが言葉以上にマイムと舞踏、表情によって軽々と言葉の限界を超えていく。
すくなくともこの日のジゼルはそうだった、素晴らしい体験だった。

一幕の山村の黄昏から二幕は森の墓場の場からはじめる。このコントラストも特徴だろう。
さいころ遊びをする人、はよく美術でも描かれるテーマである。殆ど闇という中で、ジゼルの墓(この巨大さからいって共同墓所ではないだろうか...)の背景から白いヴェールを被ったウィリたちが表れる。幽玄なの舞台表現もオペラ座ならでは。ウィリは未婚のまま死なねばならなかった女性の霊であり、その女王がミルタである。(おそらくこうした女性がたくさんいたのだ)

ラ・シルフィードや、レ・シルフィードをみたことがある人ならばジゼルとの類似と違いをよく理解できるのではないだろうか。そんなことを思いながら舞台演出の効果なども見ていたのだが、帰宅してから購入したパンフレットを読んだところ、クレマン・デシーによる舞踏史を踏まえた解説がよかったので引用しておきたい。


「1849年にカルロッタ・グリジがパリを去ると彼女に比肩する踊り手は一人としてなく『ジゼル』は輝かし生誕地を見放した。このバレエはオペラではほぼ上演されることなく、1868年に芸術的・政治的理由から招かれたロシア人バレリーナのムラヴィエワのために行われた一連の上を最後に、レパートリーから姿を消した。もしマリウス・プティパが(※プティパはフランス人ダンサーである 著者付記)長くバレエマスター(バレエ教師 著者付記)を務めた時代に上演が定期的に続いていなかったならタリオリーニの『ラ・シルフィード』と同じく『ジゼル』も間違いなく忘れ去られていたであろう。(中略)

プティパは機械仕掛けの飛翔を排し、ヒラリオン役を一部カットしこれに対してジゼル役を強化した。(一幕のヴァリアシオン)それ以来、これがオリジナル版でジゼルとロイスが踊っていた「葡萄収穫の踊り」に変わった)(公演プログラムP20)

この記述はとても興味深い。第一に機械じかけの飛翔とは、「ラ・シルフィード」で取り入れられている演出であり、この失われかけた演目を復刻させたのはパリオペラ座のラコット氏であるからだ。(なお、東京バレエは以前からパリ・オペラ座の衣裳と舞台装置を借り、前回公演ではマニュエル・ルグリとマチュー・ガニオをゲストとして上演しており、今回も同様に上演する。今回は男性ゲストダンサーを呼ばずに公演するのでそれも見どころだ。)
第二に、カットされたヒラリオン役の部分が非常に気になる。今回のパリオペラ座の演技をみていると、ヒラリオン役にたしかに場面が不足しているのがわかるからだ。またもともと葡萄収穫の場として踊られていたことは、ジゼルがどの季節でどのような祝祭的なイメージの中で創られたか合点がいく。葡萄の収穫は豊穣さであり、こうした祝祭的なムードは一幕の歓喜や幸せのピークと等号で結ばれるからだ。
おそらくロシア、マリインスキー版では、葡萄の収穫の場面は不要になったのであろう。

舞台の感想にもどると、ジェルマン・ルーヴェの二幕の死ぬまで踊らされるというウィリ達の決定で跳躍(アントルシャ・シス)を連続で行うは素晴らしかった。またかつてNHKで放送されていたときにルグリのスーパーパレエレッスンでは模範演技でマチルド・フルステーとルグリ踊っていた「死んでいるけどもいきいきと!」という有名はヴァリエーションを躍るレオノール・ポラックも素晴らしかった。

一幕のペザントの踊りの中で、上手いと思っていた二人がいたのだが、その二人がドゥ・ウィリとして二幕の第一ヴァリエーションと第二ヴァリエーションを躍っていたのがとてもよかった。(Nais Duboscq, Bianca Scudamore)特に第一ヴァリエーションを躍っていたダンサーが素晴らしかった。(Sujet スジェのナイス・ブロック Nais Duboscqだと思われるが)
彼女のジゼルやシルフィードをみてみたいと思った。

引越し公演ならではの全幕ジゼルを堪能できました。
オケも素晴らしかった、特に二幕の深遠さと静寂な闇を表すところは休憩あけから一幕との場面展開として必須である音楽が舞台美術とあっていたと思う。

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なお公演決定当時は「オネーギン」のみ観に行く予定でしたが、舞台装置担当でらっしゃるセドリック・コルテス・トレア氏およびJeremy-Loup Querの助力で、「ジゼル」公演も観ることができました。
「パリオペラ座学校公演」以来、オペラ座の本公演としては初めてクラスレッスンの様子も見せていただきました。センターレッスン時のグラン・ワルツのアンシェヌマン時の写真です。(グラン・ジュッテ〜)
写真は許可を得て撮影しています。(IGにshortmovieも掲載しています)

バレエレッスンでのバレエミストレスはエリザベッド・モーラン、オペラ座のクラスレッスンはすべて専属ピアニストによる生のピアノ演奏で行われます。この場で改めて心からのお礼も申し上げます。


https://www.operadeparis.fr/en/artists/ballet



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