「親愛なる読者諸兄よ、あなた方の車でイスキア島の交通渋滞を作り出す代わりに、いつの日にか一度少し南方に足を延ばし、プンタ・リコーザからカーポ・パリヌーロにかけての全く未知なイタリア海岸を探究なさるべきだ。(略)ここでは、海水が昔のままにきれいであるだけでなく、旧都エレアの城壁が静かに威容を覗かせている」

(P.115 エレア)

エレア派の哲学者といえば、エレアのゼノンとパルメニデスを思い出すだろう。
エレアの歴史と地理、古代都市であった理由、趨勢はルチャーが書き記しているのでそちらを実際に読んで頂きたい。夏の読書にも旅先での読書でも最適であろう。


今日はゼノンの項を少々。


「ゼノンはパルメニデスにとって、立身出世の露払いだった。アテナイへの旅行中(※つまりこれはアテナイに政治家たちがあつまりその随員としてゼノン、パルメニデスもアテナイへ行ったのであり、ソクラテスと会話したのもこのときであるとされている)、ビュトドロスの家で哲学者たちの有名な会合が持たれた際に、まず口を切ったのは彼であり、演劇仲間の言葉でいえば「席をあたためる(桜になる)役を買って出たのも彼である。」

ともあれ、パルメニデスに発言させるために、ゼノンはパルメニデスに発言を促したのである。

ゼノンは、テレウタゴラスの息子として紀元前490年ごろにエレアに生まれた。(略)
パルメニデスがこの少年の能力を知ってから(ゼノンはパルメニデスの家の近くに住んでいたのだ)、彼を養子にくれないかと家族に頼み込んだのも当然だった(とされている)ゼノンの両親はこの養子縁組を快く受け入れた。

「この子供が選ばれたのは、彼の知力というよりも美男ぶりに負うところが多かったらしいというのは一つのうわさ話にすぎないが、我々は正直いってこれを無視するわけにはいかない。」

ルチャーは当時は今日のようなグラフ雑誌がないので確かめようがないがゼノンの風貌については諸説ある。
「いつもパルメニデスの言うことを聞き、彼の色男だった(愛人 ラテン語:Palazzi)。」こうしたことは特に珍しいことではなくて、プラトンも書き残している通りである。

ゼノンは物理学、数学、天文学を学び、稀に見る教養人となった。

ゼノンの弟子たち:メリッソス、エンペドクレス、レウキッポス、ピュトドロス、ケパロス、カリアス、さらにペリクレス。


・・・ここまでゼノンについて書いてきて、とにかく彼の記述は、卓越した教養人でパルメニデスの弟子であり、ある意味ではパルメニデスをしのいでいる。そしてその経歴や弟子たちについて書かれたあと、通常ならば主要なゼノンの哲学について触れられるのだが、さらに話が戻って、プラトン、アラブの歴史家ほかさまざまな「美男子」ぶりが書き残されているのである!

哲学において、外見と哲学は無関係とされるのが常なのだが、ゼノンに関しては別なのだ....

これは後半にもう少し書いておこう。
ゼノン=アキレスと亀、だけではないのであり、彼の死因は最近になり逸話も広がっているが、ロゴスとなった哲学のほかに、それを考え広め現在まで残っている彼らの生きた時代や状況をしることはおそらく彼らが考えたものを理解することに無駄にはならないだろうから。

冒頭のエレアの風景を書き記したのもそれが理由である。

ゼノンの悲劇的な結末について先に書いておこう。エレアは紀元前5世紀末ごろ、ネアルコスというものの支配下においった。

ゼノンはディオニュシオスから「哲学から引き出せる最大の利点は何か」とこのエレアの事件の数年前に尋ねられた。

ゼノン 「死に対する軽蔑だ」

・・・ゼノンは僭主からの拷問が次第に苛烈になるなかでも、共謀者の名を口にしなかった。ようやくその名を口にするかと思われ、名を聞き出そうとしたところ、ゼノンは彼の耳にかみつき決して離れなかった。死刑執行人たちの剣によって突き刺されて崩れおちるまで緩めようとはしなかった。
さらに、これで終わりではない。
ゼノンは死んでいなかったから。、再度拷問にかけられた。そして自分の舌を噛みきり、それを僭主の顔に向けて吐き出したのだった。ネアルコスは敗北をしり、こういう人間に対していかなる拷問を用いても無駄だと悟ったらしい。
ゼノンは、生きたまま臼の中に投げ込まれて粉々になるまでつき砕くよう命じられた。

ゼノンが絶命する際にも言葉を発している。


もう少し追記する予定。