ルクレティウスを引用した。彼は生成のみを謳ったのではない。無という概念にも触れており多少引用してみよう。

「精神の恐怖と暗黒とは、太陽の光明や、真昼の光線では、一掃できないことは必定であり、自然の姿(を究明することこそ)、また自然の法則こそ、これを取り除いてくれるに違いない。(略)
何ものも神的な力によって無から生ずることは絶対にない、という点である。死すべき人間は、地上に、また天空に、幾多の現象の生ずるのを見て、その原因が、如何なる方法を以てしても、うかがいしることができず、これひといえに神意によって生ずるのだ、と考えてしまうが笛に、実はかくのごとく誰しも恐怖心にかられてしまうのである。従って、無より何ものも生じず、ということを一とたび知るに至れば、ひいて忽ちわれわれの追及する問題、即ち、物はそれぞれ如何なる元から造られ得るのかということも、またあらゆるものは神々の働きによることなしに、如何にして生じるか、という点もいっそう正しく認識するに至るであろう」(146-158 /岩波版 P.16)

ルクレティウスがいう神々とは、人知を超えた(時間、場所)領域と解釈してもよいだろう。ここでは立ち入らないが、死すべき人間は死すべき有限の存在でありその知も限界があり、たとえそれらが可であっても、行うか否かを決めることが「知」なのだ。可能なものをすべて行うことが知ではない。・・・・

ルクレティウスの著作についての悲劇はまた別の機会に触れるだろうし、有名な話なのだが、科学をめぐる受容、解釈、実用などは本来さまざまに考えられてしかるべきだろう。




(生成と無、生成と非生成は違うだろう)

さらに215-246を参照してみることにする。生成と逆に、死滅あるいは消滅に関わる記述があり、(1)前掲記事で引用した部分が生成にのみ特化している導入部だとすれば、ルクレティウスの「事物の本質について」はこれから引用する箇所があるゆえに「本質について」主論にしていることがわかるだろう。

「即ち、死滅すべき物質で出来ているのならば、万物は無限の過去の時代が、経過した過去の時が、既にことごとく消耗しつくしてしまったわけはずだから。しかしながら此れなる世界が再生されては存在を続けてきたその元はがその期間、すなわち、過ぎ去った過去の時代に、かつて存在していたとすれば、その元の物は確かに不滅なる性質をそなえていたわけであり、したがって、如何なるものの無に帰すことは、絶対にありえない。」

ルクレティウスの著作は、被造物を創造主の生成あるいは、デミウルゴスのような生成を由としていた時代では(初期キリスト教等)、狂人の書物として断片にしか残らずルクレティウスも不遇な生涯を送った。どとのつまり、当時は、戦勝といえば、王女や美女をいけにえにして祈祷するかのような多神教宗教的なことがまだまだメジャーだったのである。ルィレティウスは、すぐれたラテン文学でありながら、原子論、デモクリトス型の文学と詩と科学を含んだ著作を記していた。
幸いにも、これらはすべてではないが、残されている。
生命、自然、知といったテーマはルネサンス期には再度テーマとなり、芸術家保護者たちや人文主義サークルではこれらを原本でよむ会も行われた。(その結果というものが、<春>プリマヴェーラでもあろう)

春を見つけるために、少し郊外にいってみたいと思うことしきり・・・・

まずは風邪を治さねばなりませんが。庭の雪柳も、新しい芽、新しい蕾がそろそろあらわれてます。
今週は風邪で...いけばなおけいこも一回おやすみしてしましました。


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