リオ五輪、自分もかつてやっていたことがある陸上(幅飛び、短距離+リレー)などが観ていました。
加えて、もっともTwitterでの話題数が多かった選手がシモーネ・バイルズ(女子体操)だったということで、夜中の競技も観てみました(録画で)





彼女の場合は、ムーンサルトなどでも通常なら落下しながらの回転となるが、空中でさらに高く回転しつつあがり、伸身で降りてくるなど、ほぼ重力との闘いのような、人間はここまでできるのだ、と思う凄さがある。
加えて女子体操の競技の歴史を振り返る映像も見る機会があった。
日本だけみていると、よくわからないのだが、オリンピックの4年というのは、個人を急激に成長させてしまう時間なのだと思った。

私は、ハイジャンプですら、実は自分が競技をするとなったら、イメージがわかない。(幅はどうすればより遠くへ飛べるかのイメージは今もある)娘はハイジャンプ選手も経験していいたから、やはりハイジャンプや棒高跳びで記録をクリアしていくイメージはあるようだ。




体操女子と体操競技ガラをみていて、ふと、プラトン対話篇のラケスを思い出した。
「勇気」「気概」こうしたものは新しいことや守りに入っているだけでは成せないことのバックボーンであり、糸口になる要素だ。思慮も同様で、これは時宜に関わるから、タイミングや怪我しないための計算、行動を抑制しつつ成功するため、また深い洞察を含む知の働きであろう。

つまりこうしたほぼ超一流の動きというのをみていると、思慮、気概、勇気、(もちろんそこに身体技術や練習といったことがある)これらは違う領域を目指すためには必要なのだと改めて思った。

対話篇ラケスでは、後半、ソクラテスによって、思慮や気概、勇気も「徳(アレテー)」の一部として語られてしまう。だがこれはあえて、異論を誘うための表現ではないだろうか。
後日アリストテレスが批判的にプラトンを継承するが、彼のカテゴリー論は、その説明の一つにも感じられる。
あくまで私見だが、すべてを「アレテー」の問題とするのではなく、違うものとしてとらえ、「適度 時宜を得る行動(=根源が思慮)なのでは、と読者が書いてあることをうのみにしないための?修辞的技術だとしたら・・・・

などと思ってしまった。


さて、明日19日で古代ギリシア展が終了です ぜひ。

アメリカはルネサンス研究や古典研究が大変盛ん。
人の成長にそれらの研究、リベラルアーツの研究が適して成果がでている面も多々見受けられた。