記事は難解かにわけて追記していきたいと思います。2016年8月22日午前9時40分に私の祖母が亡くなりました。91歳、大正14年うまれ。亡くなる日まで自宅にいて。大学病院へ自家用車で向かい、待合室で医師の順番をまつ間になくなりました。7月から確かに弱ってはいたのですが、8月をすぎたあたりから話していると、以前よりも不調を自覚しているのを感じました。

FBやTuittaではその時の心境など、書いていましたがまだBlog記事にはできていません。

告別式ののち、時折すごく一緒に暮らした時や旅行にいったこと、何気ないやりとり、最近の手足が思うように力が入らない、などの静かな寂しいし情けない、年ととって・・・ということは私(孫)だから漏らしていた祖母の本音だと思いました。

今日、久しぶりに昔のアルバム(祖父が丁寧にまとめたものだ)を少しだけ、2冊だけみた。
絞りの着物記事をつかったすごくいいアルバム。
私の七五三の写真であるとか、会社や親類と旅行したり、トレッキングや登山にいったりさまざま・・・


 


祖母宅の花入れ、玄関もととのえてきました。


また追記していきます。

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家の睡蓮のほかにと白いカーネーション、竜胆、グリーンカーネーション等のアレンジを備え、
暑いので睡蓮が枯れたあとは、百合と、竜胆を、来月まではなるべく通いたい。

つくづくこの世には、安心していける家も話せる人もずいぶん少なくなりました.....

いろいろと8月22日から時間は止まっています、なんとか我に帰る感じです、法要の準備や段取りをしたりとか。
つくづく長女長子気質だな・・・・と思います・・・・




昔の膨大な写真アルバムをみながら、
記憶を温めている。。


草月でお花を学んでいるので、少し余った花材と庭の花と一緒にして、たびたび祖母の家にももっていって玄関や、居間に飾った。
玄関、御手洗、居間には必ず花があった。歳とは関係なく、祖父もそうだったし、御手洗や玄関には油彩や噺家の書いた色紙、曽祖父が書いた色紙などが飾られていたし、居間の浮世絵風景画(たぶん広重だと思う)も毎月替えてあった。御手洗もしかり。だから、今はいつで季節はなにか、風物詩は、花鳥は、と物心ついたころから(2歳前)あったのだろう。・・・・この日記をみると、やはり自分でもカードを変えたり、玄関や御手洗、ヴァニティなど皆が使うところには花や絵画や写真を飾っている。
5月の誕生日には、KEYUKAのしめつけのない靴下やタオル、それからフラワーアレンジメントを好きな花(だろうと想定して)つくってもらい届けた。6月の末だろうか、足が少し弱くなって力が入らなくなっていると聞いたのは。叔父が1か月くらい泊まっていたと思う。(歩けるが夜中のトイレで転ぶと危険なため)91歳で元気だったが、90歳を過ぎたころから骨粗しょう症から腰を急にいためて、私もしばらく飲んでいたトラムセットなども処方されていたが春に聞いたらもう腰はいたくないと云っていたと思う。それでも私や娘が遊びにいくと、祖母自ら煎茶を入れてくれたり、お茶菓子を出してくれたりした。
二人で何気なく話しているときに、「・・・歳はとりたくないね、もうあまり友達も生きてないし・・・」と穏やかな口調で話した。うなづくことしかできなかった。「むかしの友達から久しぶりに葉書がきたのだけれども、この人も昔はとても字が上手かったのに、力が入らないよう。返事を書きたいが、最近は葉書を書いたりしていないから適当な葉書があるかどうか」と気にしていた、葉書や文具は私の趣味でたくさんあるから、鳩居堂で買ったはがきをあとでもっていこう、と思ったが結局渡せていない・・・お友達にはお返事がかけただろうか。それをもう聞くことはできない。・・・
私はパルシステムを利用しているので、地方銘菓や漬物、質の良い豆腐を使った惣菜などがときどき出るので、そういうときは2つ頼んで一つを祖母宅に届けていた。最後にとどけたのは大安の白ウリ紫蘇漬けで、7月の終わりだと思う。その時は立ち上がるのに杖が必要だったが、食事も食べられていたまさか容体がこのあと悪くなっていくとは思わなかった。弱ってきている祖母をみて、娘に(娘は初ひ孫だからというのもあるけれども、無は祖母宅に遊びにいったり宿題をしにいったり、のんびりするのが好きだった。父親の家のほうではそういう居間はないから・・・・)夏のTOIEC講習のあとだったが、その後2回祖母宅にいっている。ちょうど、病院に夕方外来にいくときだったよ、というときはまだ少し安心だった。しかしその数日後に娘からベッドから起き上がるときに介助が必要になってた、ちゃんと喋っているし足に力が入らないなんて情けない・・・・みたいなことをいっていたけれども。
繰り返すけれども、91歳で亡くなった祖母は、ディサービスに2回行ってはいたがそれも90を過ぎてからだ。
入れ歯も差し歯もない。食べたいものを食べ、歳をとっても硬いものを好んで食べていた。(丸草一福のおせんべいであるとかあられであるとか)自分の葉が2本抜けただけだった。耳は少し89をすぎると遠くなったが、普通に話しをしていたし、毎朝新聞は2誌読んでいた。

最初に祖母が少し弱ってきている、と思ったとき、一番願わなったのは、病院に長期に入院したり福祉施設で生活するような余生は送ってもらいたくなかった。祖母は自分でも少し覚悟をした時期があったそうだが、亡くなるにあたり、外来で大学病院へいき、待合室で呼ばれる前に亡くなったのだった。
だからずっとあの祖母の家にいられたことだけは本当によかったと思っている。
急に弱っていったわけであって、日常生活をしていて2週間ほどで老衰(多臓器不全)となったのだが亡くなった時は本当に眠っているかのようだった。美容院にもいったばかりという感じで、本当にまだ暖かく、眠っているようだった。22日は台風で、(実は自分も20日頃から盆の疲れが一気に出てしまって体調が酷かった。)こうした悪天候も少しは影響したかもしれない。

私の記憶は一部であることはわかっているが、それでもここに書き留めていくこととする。

四十九日の間は、なるべく花を添えたり故人の前でその部屋であったことや話したことなどを思い出したいと思う。(9月6日)


9月10日
葬儀に出席しなかった義父を伴い訪問。近くの花屋さんでアレンジを作ってもらう。私が最初に買ったものがそろそろ枯れてきたから。
この日思うことはたくさんあった。
義父は私の実家や祖父の仏壇にも線香をあげたこともない、私の祖父という意味は、私の祖母がいる、いたという事実を親族として捉えていない。
私は無料で今の家に来た、嫁や年の離れた娘として扱うことのできる完全なる他者である。私の家族も同様。
詳しくは書けないが、非常に神経を消耗した。祖母の写真をみたりしているうちに、自分のその当時の話を始めてしまう
なんのために四十九日の、まだ遺骨があるまえで、それほど自分の話をしたいのだろうか。
悼む気持ちもないのだから、...

酷い頭痛になる。


今日は花屋さんで、すすき、よう菊などをそなえて飾る。
明日は十五夜だし9月もおわりに近づいている。

四十九日が済んだあと、さらに酷い喪失感が襲いかかるこころもちがする