物語近代哲学史〈2〉デカルトからカントまで
ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房
2005-07

「レッシングはドイツ啓蒙主義の最重要人物だった。彼は詩人・劇作家として、とりわけ悲観論的哲学者として記録されている。彼が人生において抱いていた唯一の欲望は苦しむこと。それもできるだけ多く苦しむことだった。・・・・・1748年のにベルリンにうつりヴォルフェンビュッテルのブラウンシュヴァウイク公国立図書館の司書として安給料で雇われ(・・・・中略。)1782年彼本人も亡くなった。
最後の言葉は「なんとまあ、私は不幸だったことか!」 (物語近代哲学史 p.145)

・・・安い給料がいくらかはルチャーは書いていないし、実際彼をみてきたわけではないのだが、それでもルチャーのレッシングへの文字を書くものとしての愛着を感じられる。あくまで私見だが。
私はルネサンス、特にプロトルネサンスを研究していたときに必須の科目として、ドイツ文学とドイツ演劇論などを学んでおり、「エミリア・ガロッィ」や「賢者ナータン」も教科書の解説では頭にはいらず(つまりレッシングが何を目的に何がいいたくてその作品を書いたかをつかまずに論述はできないと思ったからだ)、図書館の書庫に籠もったものだ。
「ハンブルグ演劇論」「ラオコーン」は一読するとよいかもしれない。

苦しむことを目的にしている人というのは、一定数いる気がする...
そうでなくても苦しみは自然にできごとや境遇や偶有性から抱かねばならないときもあるというのに、自ら苦しむことをのぞむというのは....今の私にはよくわからない。
何があってもどうしても悲観的になる場合はあるし、想像を絶する痛みもある。だからかもしれないが、私もルチャーが書く通り「適度な楽天主義者」のカテゴリーに留まりたいと思っている。

それで楽天主義者でありたいと思う心もちで、レッシングを対象に科目の勉強をすると.....これがまったくあわない。ひどい蕁麻疹になり2週間ほど苦しみながら、著作を読んだり、タイトルを諳んじたりそんな記憶。






いくつかは今から観るとある芝居の題材のひな型がレッシングにあるように思えるものもある。