カリクレス ;真実がこうだと、あなたにもわかるでしょう。哲学はもうやめにして、もっと重要な仕事に向かうのなら、哲学というものは、ソクラテスさん、若い時分に適度に触れておく分には結構なものです。ですが必要以上に従事しつつけると、人間を堕落させてしまうものです。(「ゴルギアス」484C)

哲学者というと、普通は抽象的な概念や難解な論理を展開し、真理を考察していく論述であり、人物が正面に出てくることは稀です。哲学説は著者や個人と切り離して論じられる。(略)古代でも、アナクサゴラス、メリッソスやアリストテレスら、論文形式の哲学書は普通でした。ですが、プラトンさん、あなたの対話篇は、そういった著者と作品の区別、人物と内容との区別さえ受け付けないようにみえます。・・・・


ゴルギアスは言論で説得できることなのだよ、弁論術が最大の利益をもたらすと、こう宣伝します。
(略)

私たちも想像してみましょう...言葉をあやつることで相手の心理を自在にうごかし、信じさせてなんでも思い通りにさせられるとしたら(略)何気なく耳にする言葉や目に飛び込む文字や画像が、意識されることなくその人を支配する...。そんな魔法が弁論術なのです。
情報が氾濫する一方で、価値基準が崩れて自己確保できない時代、弁論術の問題は深刻です。
「言論は、人を動かし支配する力だ」というゴルギアスのメッセージは、マスメディアやネットワークメディアやパーソナルメディアの世界でいよいよ現実実を増しています。」(「プラトンとの哲学」 ゴルギアス P30)



======引用させて頂きました。


真理は存在する、なれど真実は一つではないかもしれない、真理をしることはできないかもしれないが、真実らしきことがらを吟味したり考察し、よりそれに近いものが浮かび上がることは「不可能ではない」
哲学者とはなにを示すか、真理を探究する、しようとするものの営みであり、それゆえの「中間者」であろうとすること。フィチーノは、それを「饗宴註解」で哲学者はソクラテスであり、(おそらく彼らの読者に理解しやすいように?)牧者であるともいっている(これが正しいたとえかはわからないが、雄弁家、最古ならば正しい、名誉あるものが正しいなどそうした観念にたいしてソクラテスを引いて説明する。時代はルネサンスであり、プラトン原典と読み比べるとよりわかる、と私には思うのだが。

「現代の社会で「哲学」と言うと、大学で教えたり研究論文を発表したりする限られた専門家の仕事のように思われています。しかし、ソクラテスやあなたが「哲学者」という言葉を使い始めたとき、人間だれでもそうあるべき生き方を意図していたと思います。・私たちはみな哲学者であり、いやそうある「べき」だという意味です。」

(「プラトンとの哲学」P31より





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哲学がもし必要ない、自分には無関係と思う人が増えればふえるほど、ゴルギアスの弁論術は拡大し、人間性が失われた世の中、人間社会が知られていない、過去や他国と比較することもなく、人間性の喪失があたりまえにならないためにも。われわれはもっと、書かれたものに接し、それについて語るという基本的なことが必要なのではないかと思うのです。

ダイアリー :10月からずっと参加したいと思っていたギリシア語講座勉教会にいってくることができました。













2015-11-18-04-57-05






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