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「お盆」どんなふうに過ごしましたか? に参加中!
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写真は兼利琢也先生訳 セネカ 「怒りについて」(岩波文庫)。お盆期間の最後の日に、プラトン対話篇 「ラケス」「国家(ポリテイア)」の一部をテーマに勉教会を行いました。
兼利先生は関東ラテン語の会(山下太郎先生のラテン語・「ローマ人の名言」からのつながり)で新年会でお会いしてからやりとりさせて頂いています。納富信留先生のマルクスアウレリウス講座で、私は岩波のマルクスアウレリウスを持っていったのですが、岩波の訳のあたらしい訳注は兼利先生が書かれているとご紹介がありました...ということもありました。
とにかく兼利先生が勉教会にいらして下さったのですが、そこで本書を頂きました。
サインもして頂きました。
こちらでも紹介させて頂く次第です。

今の大学ではほとんど古典を読まないまま卒業してしまいます、しかも、高校から大学への偏差値の「ランク」が実態を持つような感覚で...学部内にいるときに、疑問も持たず、自分が賢いと思い込んで何も読まないまま過ごしてしまうようなところが見受けられます。私は常に学習者の立場に自分をおきながら、何か経験的に語れることがあれば、その方法を伝える(教えるという教示よりは)ように努めているのですが、ともかく、欧米では高校生のときに読み、考え、共有されている問題がまるですり抜けていると感じています。
私自身、高校のときに学校併設の図書館の書庫の奥深さに触れてから、未知の知識や情報がこんなにあるのに、読み切れるのかと嬉しく思ったものですが、あまりそういう感覚もいまはないようです。
私がインターネットを使い(作る)ようになったのは2000年以前ですが、コンピューターがない時代の知識と伝達、古典は2500年、それ以前のオリエント時代を考えればさらに人知がどのように継承されたのか、理解したいことは山ほどあります。しかしそういうった事柄もまったく気にしない人が増えてしまったようにも思えます。

容易に技術、書物は断絶され、文字は読者なくして存在しないかのようです。
重要なのは、受容者が共有し、言葉で語ることだと思っています。

はたして伝わったかどうかはわかりません。
しかし、自分が知らないことがあるのだということをどうにか気が付いていただけたらと思うのでした。



さてお盆の日...8月15日は終戦記念日でこの日は東京人にとっては忘れられない日なのです。

リアリティをもって、そういうことができます。
祖母、義理父、そして亡くなった祖父も戦争体験者であり、今年の正月は普段はあまり語りたがらない祖母の話しも聞けました。義父にとっては養父が戦没したので敗戦という気持ちのほうが強いようですが、ともかく、それを理由に私が食事の席を設けました。


普段なかなか話せないことも、夕食をともにすることで語れたのが皆にとってよかったのではないかと思っています。義父からは翌々日も感謝と御礼の言葉をいただきました。決して余裕がある日々ではなかったのですが、設定してよかったと思っています。
また正月にこうした時間を持ちたいねといってくれたのはうれしかったです。

サンフランシスコから帰ってきた娘もなかなか一緒にゆっくり話すさ
最近スマートフォンからの写真が転送できないので、あとで写真を追加したいと思います。

(俳優でデザイナーの植野堀誠さんからこの日の写真にいいねをしていただいたのもあり、8月の10日以降がほとんど忙しくて記録ができていないのもあり、この機会に書かせて頂きました。)