ここ数年、肯定神学的な論調が比較的流行しているせいか、否定神学がネガティブなものと考える向きもあり、否定条件による可能性開示の意味がなかなか理解されないように思われる。
例えば、高次存在を語るときに用いられる説明、時間空間に制約されない、肉体および生成消滅する摂理に制限されない、などの「ない」に対して、じゃあなにもないんですね、というリアクションが簡単に帰ってくることにちょっと戸惑いを感じることがあるため。

ここで、もっとも短くわかる言葉で書いてあるルチャーの説明を引用したい。
(ゴルギアスのロゴスの相対性の項)

「・・・私見によれば、”真理は存在する。何となれば、真理が存在しないとすれば、真理が存在しないという事実も存在しないであろうからだ。”真理(もしくは神(※ここはロゴスという意味での神かもしれない)の存在に、論理を通して接近するための唯一の道は、積極的否定の方法である。」

(P.266 ルチャーノ・デ・クレシェンツォ 物語ギリシア哲学史機.愁ラテス以前の哲学者たち)

*”   ”は著作では傍点。カッコ内※は高嶺による記述

いかがだろうか。

もし、神が全能である、宇宙は無限である、・・・「なのである」この積極的肯定の連続によって、より論理を通して真理に到達できるのだろうか。いや、有限者には到達は不可能であろう、ただしこの不可能性はネガティブなものでもロマン主義的なものでもない。不可能性を限定することで可能がより輪郭を得ていかないだろうか。
それがおぼろげなものから、条件をマイナスしていくことで、我々はこの真理を包括する円から少しずつ光明が見えないだろうか。
おそらく私が理解するところの、否定神学とはこうした可能要素追及の道なのだが、それが、ネガティブであるとひとことで語られ断言されることが、いかに可能性を失うか、そんなことをふと思っていた。
この春から6月、そして、アリストテレス哲学をもう一度読み直すにあたり、いまいちどソクラテス以前の、とくにパルメニデス、ゼノン、エレア派からプロタゴラス、レオンティノのゴルギアスなどを見直していて思ったことでもあり、ノン・フィニートの美というのは決してネガティブや諦観を意味するものではないはずなのだ。

何が正しいのか。
それは容易には得られない。しかしながら、問いかけてくるものに耳を傾けよう。
排除の言葉、強引で説得性のない言説、定理なしの噂、迷っているときにはまだ真実は近くにある。
おそらく、思い込んだときに正しさは遠のいていくのではないだろうか。
ドクサとエピステーメー、これらを見分けなければならないだろうから。

強い肯定、それに同意するように迫るものには一度ばかり立ち止まらなければなるまい。



熊田 陽一郎
世界書院
1996-08




物語ギリシャ哲学史―ソクラテス以前の哲学者たち
ルチャーノ・デ・クレシェンツォ
而立書房
1986-10







2015-07-02-09-26-23


某ワークショップで作った水彩とシルクスクリーン。

講座のこと、研究会のこと、そして「持続可能エネルギー問題」の基調講演、ディスカッションについての記事を書かねばなりません。自分の中で文章化するためにも。





2015-07-02-12-01-112015-07-02-09-26-03

みなみさんからモダンなベースを頂戴しました。
使いこなしたい。黒がダリアやピンポン菊などもあいそう。

白いレースのマットもみなみさから。
最近、月桂樹がたくさん伸びているので、花材にも使用しますし、普通にローリエにもします。







〜月の砂漠〜 アラビア料理レストラン+Cafe <<告知:アラビアンランチ 庭の花:桔梗