ロベルト・エスポジトの「三人称の哲学」第二章 ペルソナ、ヒト、モノ は今日的な問題、とりわけ我が国における民法がしばしば問われる問題にローマ法を観点として換言している。
しばし、第二章を参照してみよう。

「ひと、ペルソナはもっとも一般的なカテゴリーであり、その内部では、他のすべてのカテゴリーが、類から種へと、特定の人間にこだわることなく、連続する分岐の戯れを介して配置される。そのようなわけで、すべての人間はまず奴隷か自由人かに分けられる。「人の法についてのもっとも大きな分類」によれば、その最初の区分につづいて、"生来の自由人"(ingenui)、すなわち生まれながらにして自由である者と、"被解放自由人"(Liberuti)、すなわち主人によって自由の身とされた者のカテゴリーが生じる。そこで明らかになるのは、ひとーペルソナの形式的なフィルターを介した権利が、個々の人間の具体的な実存や身体的な濃密さからますます離れて、ひたすら抽象的なカテゴリーの彫琢に専念しているという事実である。
たとえば、奴隷 servi、所有している息子 filii in postestate、婚姻関係にある妻 uxores in matrimonuo、手中にある女性 mulieres in manu、奴隷に準ずる状態にある自由人liberi in mancipio、さらには債権者に付与された者 addicti、遺言または拘束行為によって発生する責任により拘束される者nexi(興行主に雇われた剣士など)賃借された者 auctoratiといったような、これらのカテゴリーはすべて、(他人の権利に服している)"他権者"としての人間存在--還元すれば、彼らを法-権利の主体ではなく客体にしてしまう、あるひとつの外的な支配力に対して、さまざまなかたちで従属している人間存在--の階層をなしており、それぞれの社会的身分status によって厳密に定義されている。このため彼らは、唯一の"自権者" sui iuris である家長によって、時と場合に応じて、合法的に殺されたり、売買されたり、使用されたり、解放されたりする危険に曝されているのである」(p.122-3)


しばしば、あたりまえ、であるとか伝統的にであるとか、慣習としてといわれる部分としてこのように示すとき、これらが正当であるといえるだろうか。われわれの身近にあり、今日的な問題、ストレス(否、ストレスは抵抗可能なものである、これに対していわゆる"うつ"は抵抗しようのない状態から生じるものである)、非生産性、暴力の原因としてあたるものも多いのではないだろうか。
そして何かが問題であると指摘されたとき、「伝統的に」であるとか「国(あるいは"家")が破壊される」という言説を目にすることも多いのではないか。しばしばこれらが不合理であると思われたり指摘されるのはなぜか。
しかし、それらによって現に破壊が進んでいる事柄も多いのではないだろうか。
そもそも、これら前近代的な事柄を克服するために近代は旧制度からすこしずつ進展してきたのだが。

自らにとっての他者とは誰なのか。
「いつものように」二元論に固執する必要はない。
このあたりまえのようで遠のいている抽象的な「ひと」(平等である)」「自由」についてもうすこし具体的な法とともに考えてみたらよい、と思う次第。


「ナチズムとリベラリズムは同じ装置によって生み出された、たがいの反転像にほかならないのである」