モノローグ・読書メモ。

アリストテレス全集(新訳)の「カテゴリー論」「命題論(解釈について)」を読んでいました。
朝日カルチャー・古代ギリシア哲学史 アリストテレス論理学の成立を受講しています、西洋哲学史は古代から20世紀まで2つの科目+一般教養での新プラトン主義読解について+専門科目でのレヴィナス、フッサール(と関わるホッブス、カント)を履修していますが、アリストテレスについては教科書的にしか学んでいないためです。試験では論理学(カテゴリー論)、倫理学では「ニコマコス倫理学」は必ず通る道ですが、どうも何度読んでもプラトンとの違いが明確にならないか、なったと思っても自分の臆見が入り込んでしまい、釈然としなくなるの繰り返しになることが多く、一度テキストを読むためにも専門研究をしている先生の話を是非聞きたいと思いました。
納富先生によるアリストテレス講座です。

中世の思想史に接していても、思ったのですが、自分の大まかな了解がどうも、アリストテレスとプラトンは調和している説をとっているポルピュリオス以降の解釈がだいぶん下敷きになってしまっていると思いました...
何かを理解する上で、差異は明確にしておくべきなのですが、どうもこのあたりが問題のようです。
初心に帰って、註解以前のテキスト理解をしたいところです...。

「エンドクサ(endoxa)とファイノメナ(phainomena)」についての解説がとても解りやすかった。
これは自分では明確にできていなかった(といいますか上手く〜であると述べられなかったところ)部分だと。

ドクサ(臆見)を問うことで、より明確な言表を求め、それを通じて真理探究を行うというのがプラトンの基本的な学問態度だとするとやはりアシストテレスの言説とは大きく異なるのはここなのでしょう。

「わかっているような気分」やはりこれは雑すぎる認識で、理解とは程遠い。
自分で認識して正していくほかない、と思う次第です。


読書を進める中で、新訳版の全集で日本におけるアリストテレス哲学受容について書かれている部分があった。

「時代がここまで来ると、はるか彼方の極東に位置する国も無関係ではなくなっている。コインブラからはイエズス会士たちがアジアへと派遣されたからである。(略)
コインブラで学び、そのコレジオで嘱望された教師でもあったペドロ・ゴメスは、1583年に日本を訪問し、イエズス会巡察使ヴァリニャーノの要請により豊後の国で活躍した。同年10月21日には彼の監督のもと日本で最初の正式な哲学課程が開始される。さらにゴメスは、哲学と神学に関する日本独自の『講義要綱』(Compendium)を1593年に完成。95年にはその日本語版がつくられたが、これはアリストテレスの魂論と天界論の概要をある程度まで伝えるものだった。天正少年使節の一員だった伊東マンショも、天草のコレジオでゴメスの『講義要綱』を学んでいたと伝えられる。
この経験が、日本の人々とアリストテレス哲学との最初の本格的な遭遇である。

この遭遇と明治期以降のアリストテレス受容との関係については、まだ多くの調査と議論が必要だろう。」

(「歴史の中のアリストテレス」 『アリストテレス全集1 カテゴリー論 命題論』(P.428-429)






天正遣欧の時代(1582)から単純に明治期まで(!)この経験は断絶することになる。
当然ラテン語読解と哲学の講義要綱の伝統も
ルネサンス、および12世紀、それ以前の思想史においても、学術隆盛は開明的君主とその気風のもとに文化受容と探究をした有力者層の存在が大きい。
少し話がそれてしまうが、そうでない場合は知の水脈が枯渇してしまうことも多々ある。
こうした事柄が比較的容易に起きてしまうことが多々あるがゆえに、今日的な復古的態度に対しては憂慮してしまう事柄が多い。

実際のところ、禁教令とはこうした学問的真理を遠ざけておくために(あるいはその方法を得ることや人々に浸透させないために)出されたものなのではないだろうかという推測もわいてくるが(今のところそういった言及は一般にはされていないと思う)テキストに戻り、カテゴリー論と命題論について読もうと思う。
命題論は、そもそもは「解釈について」という意味を持つが、ドイツ語訳から得ることが多かった日本ではこれに倣って「命題論」というタイトルを持っている。しかし、将来的にはこのタイトルが変わるであろうという解説も全集1の解説には付されている。





帰りにトポス論、ソフィスト的論駁を書店購入しました。