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物語近代哲学史〈2〉デカルトからカントまで

私たちが知っていること(知れること)は氷山の一角だと思う。そのうえ、この夏百科全書派貴重書の展示を、三田メディアセンターでみて、反百科全書派の存在を知った。(百科全書派貴重書展が昨年丸善であるのは知っていたが行けず残念だったのを覚えている。「反」哲学本を出していた木田元先生が亡くなった。「反」という言葉を使うとき、その意味はそれらすべてを知っているうえでの「反」なのだと最近思った。
無神学大全などがバタイユによって書かれたのは、バタイユが敬虔なカトリック信仰者だったからであり、トマスの神学大全を意識しているのは間違いない。しかしこの動き(啓蒙主義)とも違うスタンスだろう。私は今は無神学や反哲学、反百科全書とは気楽に口にだせないが、当時どのような状況だったのかは勉強不足であまり知らない。
私は百科全書派はすきか嫌いかと問われれば、すきなほうである。彼らのパッションは凄い。
ディドローを語るほどよくしらないのだが、1700年代はもっと知る必要がある時代だと思っている。

ところで、なぜカントを表題にしているか。
そのことを語る前に、ルチャーの簡単な紹介をみてみよう。

「カントをたったの一言であらわさなければならないととしたら、私は、”批判主義”つまり、”独断論”の正反対を選ぶであろう。(略)
カントにとって、批判することはイタリア語の辞典に出ているような「何かを悪く言う」という意味ではなくて、議論する、評価する媒介する、とりわけ限界そのものに直面することを意味した。この限界に直面(限界を確認する)ということは、はなはだカント的な概念なのである。(P.201)」


ルチャーが著作において思想家ごとに端的に語ってくれたら、大体の意味においてあっている。
とにかくこのことを覚えておいて筆を進めてみる。

ところで、私は8月はずっと(香港行きの飛行機に乗ったときも、帰宅したときも、そして一昨日月末までの仕事を腰痛がひどくてすわっていられない状態で・・おわらせたたときも)疲れて、いや疲れ果てているのだが、身体的な理由とともに、神経的・・というよりは議論不可能・対話不可能な状態が断続的なことが一番の理由かもしれない。

ここ数か月、5月ごろからそれは続いている・・・思い返してみればそのあたりからなのだが、ソシュールやハイデガー、デリダといった思想家・哲学者のテキストを原書・翻訳で読んでいる家人が急にカントを夢中で読み始めた。いや、正確には、カントをテーマとしたカント研究者の著作を図書館でかりたらしく読んでいる。
私は、フッサール(斎藤先生)の講義・発表のときにカントを読んだし、教育学でもカントはしばしば課題にでるので、一次資料であるカントは未読ではない。(すっかり読んだわけでもない、そういう意味では哲学史を学んだ人間にすぎない)「どう?」とおそらく一言聞いたのだ。
すると嘆息して、問を発した私のことをちらりともみずに(彼は私と話すときに一切眼を合わせることがない、まるで不在の誰かに語るようだ)「すっごく面白い、・・・・」と感想というか想いを語り始めた。
具体的なところがまったくわからないので、それは主に何を問題としているのか、と聞いたところ、釈然としない。
このあたりがたぶん発端だ。
私の周囲にもカントを研究したかたは何名かいるので度々話題になることもあるが、こういうことはない。あたりまえですが、対話あるいは批判的対話になる。 しばしば家でまだ話題となることがあるが、最近はカントの名前がでて数分で怒りはじめた。
”認識論のカント”これがおそらく家人が問題にしていて夢中で独学?しているものなのだが、もう本の内容を聞いただけで最近は罵倒してくる(!) 家人は「最近カント研究は新しくて、新カント派を一掃するかたちでものすごい最前線なのだ」というのだが、・・・なぜカントのテキストを読み理解し、批評し現在を考えるための視座とするのに、「一掃する」とか「かつてない」とかが大切なのかわからない。ちょっとそれってどういうこと?と聞いた途端に「じゃあいいよ」「黙れ」などというのかがまったくわからないんですよ!(苦笑)

一か月近く変な疲労がたまるので、ルチャーの本をまるで新約をめくるように読んでみたら、「カントは批判」と書いてあるじゃないですか・・・「タレスは水の人」みたいな簡潔さで。
まるで告白台に上る懺悔人のような気分でやっぱり考えてもおかしい。
(さらに私は疲れ果てているのですが、あちらはそうではないのです。)
あまりに血圧が高い哲学研究者というのもどうかとおもうのですが、私は何気なく、思想好きと哲学好きは厳密に違うのであって、思想好きは批判的思考や議論、対話ではなく、同調、避難、圧倒(もちろん対象は他)を目的としているので、建設的な対話とか批判的了解ということには、ギャップがあるのでは、と。かみあわないのではないか・・・と、しかし独学で勉強するのは危険です。家庭内で、私にあれこれいうくらいなら、他に方法はあるはずで、しかし他人とは一緒にやりたくないとか、そこまで本気でもないんでしょうか。
限界に直面する。確かにカントを平静に語れる場合はこれを意識的にして、思考するので、本来は他の感情がでる余地もない。本当にその通りなのであって、独断的であることを批判しつつ理解、あるいは対話的解決を進めなければ、純粋理性批判を我慢強くかけたわけがないし、読むほうもそれなりに冷静に(血圧をさげて)読むと理解でき、言葉のもつ意味へと近づくことができる・・・と私は思っているのですが、仮にも「黙れ」とは。・・・
だいたい、カントのテキスト自体を問うことをしないため、本来の議論からも遠い。 こんなことを思いながら、お弁当用のだし巻き卵(わかめ入り)とか、マイタケと小松菜のおひたしとかを作っているわけですが、最近は疲れてあまり料理のアイディアもでてこないという末期症状です。


カントのテキストは図書館にはどこでもあるから、教育学でも純粋理性批判でも、読んで見てほしい。

つい数日前も、それは・・・と言いかけた瞬間に「じゃあいいよ」と・・・カントを論じよう、いやこの場合は家族の対話程度なのだが、語ろうとした途端にすごい権幕で怒っているのをみると、「ちょっとこんなことって。天国のカントも、びっくりするだろうに」、と思わざるをえない。 本当につくづく疲れ果てたのだった。

カントの名誉のために、彼の晩年にも敬意を評さねばならない。
「君主フリードリヒ・アウグスト二世が歿したこと、ある病気になりほぼ盲目になったこと。記憶力を活用できなくなってしまったことだ。過去のすべてのことは覚えていたのだが、現在については何も思い出せなかった。
彼本人もこのことを悟っていたのであり、こういって言い訳するのだった「こどもたち、我慢してね、私は年をとったんだ。」1804年に亡くなった。」P.200


ルチャーの伝記的な部分はどこまで本当かわからないが、本当かどうかはルチャーの読み物のなかでは最重要ではないのでこのまま書いておく。

つまり私が謎に想い(疲れてしまう)疑問に思うのは、哲学をするという口に出してそれをやろうとする人たちの中には、どこか黎明期の政治のような勢力争いのようなことを望んでいるのであって、事柄についての理解や現在おきていることを分析して整理するといったことをあまり目的にしない人も相当数いるのではないかということだ。
議論といえば、自分の主張をし、相手の発言は遮る。自分の同意者を増やすことと、反対意見のものを「黙らせる」。疑問には「質問返し」。・・・
しまいには激昂して立ち去る(本当に。ドアの外へ、車で去る、罵りながら去る)
このような時間が続くと考えるのもおそろしいので長生き願望は全くないです。全く、まったくない。

私にはもう対処できません。そんなにカントが学びたかったらいろいろな手段で独善的でない学ぶ方法を始めるとかいろいろあるはずですが、そこまではしたくないのか、しかしちょっと話が通じそうだと思ったら同意をとりつけたいのか・・・そしてカントを例にあげましたが、カント限定でそうなるわけではなく。同じ説明をしてもたぶん人の話は自分がはなすためにあるもので、聞いてないために何回も話します。が、忘れているからやりなおすか、怒ってくるか。 最近では、「声をだすな」ということが増えてきた! 疲れ果てました。

8月にお会いしたお友達のみなさま、ことあるごとに6月から疲れている、疲れちゃって・・・・とぐったり精彩ないことこのうえなく、すみませんでした。気温や疲労や無理などもありますが、この日常生活のかみ合わなさ、生活だけでなく仕事の打ち合わせにも影響がでるしで、今に至ります。「え、それは凄く疲れないですか?」とねぎらわれましたが、言葉と言動の不一致を間違いを理解しつつ、回収してまわるというのは思いのほか疲れます。

短い人生ですから、独善的ではいけない、得るものもない、客観的に、できるだけ他者には寛容に、感化されるものからは学べ、このあたりは常々感じることです。


ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房
2005-07






純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
イマヌエル カント
光文社
2010-01-13