トマスからボナヴェントゥラ周辺の事情を再考したくなりメディアセンターへ。

「先に普遍論争によってギリシア哲学が中世ヨーロッパの知識人に伝わったと述べたが、中世の議論をより深く理解してもらうために、もう少しギリシア哲学の本質について述べておきたい。というのも哲学というと「質料系総論」とか「範疇」とか「本質」とか「超越」とか、そういう哲学用語にとらわれてそれを口にすることが、ギリシア哲学だと勘違いしてしまう人が、案外にいるからである。」 (略)

「哲学においてそれは「より大とより小」「全体と部分」「一と多」の三つの対である。この三つを使いこなすことができるようになれば、哲学は難しくない。(略)実のところ普遍論争は「全体と部分」および「一と多」の論であり
、後に説明するアンセルムスの神の存在証明には「より大とより小」の論理が遣われている。」(p30-31)

一と多の問題は、私が専門で取り組んでいる『ピレボス』の問いでもある。

「・・・プラトン『パルメニデス』から示した哲学分析である。
この理論を用いたときにはじめて哲学が学問として成立するということだ。」(P.32)

このあたりは初読者でもわかりやすいほうなのではないかと思い引用した。(新潮選書 八木雄二『神を哲学した中世 ヨーロッパ精神の源流』)

非有と有の説明に関しては、荻野先生の本が分かりやすい(「哲学の原風景」)
「洞窟の比喩」については納富信留先生の「プラトン」(NHK)がやはり解りやすい。

今日では哲学の意味を知って、我々のような小注解が必要な人間に対しても言葉を砕いて丁寧かつ核心的な本が出ている。

しかしやはりテキストに向かうとテキストを媒介として、著者が書きたかったことが何か、書かれた言葉としてよみがえってくるとつくづく思う。


「哲学史で扱われるヨーロッパ中世とは、西ヨーロッパが古代ローマの文化に触れ始めた9世紀にはじまり
西ヨーロッパが文明の発達を始める11世紀に明確となり13世紀から14世紀にかけて「この世の終わり」を強く意識するようになった次節に終わりを迎える、およそ500年の期間とみなすことができる」(p.24)


・・・私たちは自分たちのことを何と呼んでいるのでしょうね・・・現代の〇〇人?
例えば14世紀のフィレンツェ人のアイデンティティは「ローマの娘」(共和制ローマを受け継ぐもの)なんて名乗っていました。私たちは、何の時代のどんな時代にどのように生きているのか。
死は「ならし屋」だからどんな人にも訪れるが、今日ではどのような「死」を迎えることが多いのか、
我々はそれを忌避するようにあるいはないもののように暮らすが、それは幸せと呼べるのかどうか。
忘却された日々をすごしさらに忘却がすべてをつつんでしまうだけなのか。

哲学を学び(あるテキストをよみ、それを専門者との言葉を交えて独善的に読まないことが必要)テキストと時間を共有すると、死は恐ろしさの対象ではなくなる。





神を哲学した中世―ヨーロッパ精神の源流―(新潮選書)










キリスト教哲学入門:聖トマス・アクィナスをめぐって
エティエンヌ・ジルソン
慶應義塾大学出版会
2014-07-29

ジルソン『聖トマス・アクィナスをめぐって』が、慶應義塾大学出版から発売されました!7月29日発行。 山内先生の『誤読の哲学』は、家族が読みはじめておすすめされた。私のおすすめは『天使の記号学』のグノーシスについて。中間者の絶対者に対する立場が天使。 井筒俊彦全集4とジルソンのトマスをめぐってもよみたい。
テキストに向き合いたくて、ボナヴェトラントゥラのテキスト借りました。
P1010688

ところで当時フィレンツェにいたら、フランチェスコ会かドミニコ会かは散々迷うかもしれませんが、フランチェスコ会はいいな、と思うけど、自分ならドミニコ会を選ぶとおもいます。
(これはもし誰もが(こういうことを学ぼうとする)その時代にいたと仮定するならば、多いに悩むところだと思う、このあたりについてはルチャーノが書いている。)

当時あることがらが、どのような意味をもったか、どういうことを表していたか、文脈を読解するためにはその時代に分け入らなければならない。
そういう意味でも、八木氏の本は参考になるところが多い。

 写真はフィレンツェのトルナブォーニ・ベアッチ。
このテラスからサンタマリアノヴェッラが観られますし、やっぱりイタリア、フィレンツェでもう少し調べたいです。