
トマス・アクィナスの公開シンポジウムに出席しました。
今までどちらかと言うと、アルベルトゥス・マヌグスからトマスへ、ドミニコ会から内省的宗教改革へというような流れで見ていたので、ボナヴェントゥラとトマスについてはあまり考えて来なかった。
キケロを読んだときに彼の中のプラトン主義的な善・美、上昇というものがテキストには反映されていると感じたがこの日は、トマスの中の新プラトン主義的な流れを今まで以上に感じた。
有と一について、エッセの理解についてのさまざまな立場と真の意味について、これは私にとっての課題でもあるので熱がさめぬうちに読むことにしたい。
一と多、分有について。
それからなぜ三位一体の理論に流れこんだように見えるギリシア哲学とキリスト教の境界上の問い。
聖霊というものが何を語るのか、カトリック固有の聖霊という仲介者が思想的的な中間者と関わりがあるのかどうか。おそらくは、14世紀15世紀から省みる形になるかと思うのだが、できれば、自分なりのテキストにまとめてみたい問題。
語られる言葉で目が開けてくるという経験を得る機会ができて、やはり哲学は語られる言葉から始まったもので、聞く話すことが読む書くというに先立っていると感じている。やはり、存在論に関しては、バークリー以降は納得てkないのです。
時や場所、その他の理由で生命活動がついえたとき、それでもその人は存在する。(生きている、のではなくとも
)

外は三田納涼カーニバル。
城北会へ出席すると5月に返答していたのですが行けず...でした。
受付にあった新刊のキリスト教哲学入門.
7月29日付で発行されるようです。読まねば....
ボナヴェントゥラは上記の文献については読んでいたし、何冊かは手元にあるので見てみようと思う。
上枝先生の有と一についてのコメントがとても刺激になった。
天使の記号学の中のグノーシス派についての言及などを読んでいます。
コメント