三田文學 2014年 05月号 [雑誌]






先週届いた三田文學117号に「井筒俊彦 生誕100年」が特集されている。

まだ読み途中なのだが、「神秘を歩む言葉ー井筒俊彦の暗夜」という納富信留先生の寄稿、「井筒俊彦とキリスト教 存在論的原理としての愛」を書かれた山本芳久氏のテキストが興味深い。

一と多の問題、および「愛(エロース)」「美」、知識としての「光」などはいずれも抽象的なものではなく、存在と実体の根源に関わっている。


興味深いと書いたのは、山本氏が井筒俊彦先生がカトリシズムに対する親近性を存在論の原理として読み解いていたという指摘である。

カトリシズムと哲学は実のところ関係性が深い。信仰か敬虔か、といった問題は1400年代半ばのフィレンツェではフィチーノが両立させようとしていたが(このあたりは社会史をみるとよい)、イスラームにおいてもアリストテレスとコーランは対立しないといったような主張は中世においてなされてきた。
合理主義と神話性が高いように思えるプロテスタンティズムに関しては、ルター説は、キリスト教の本来性を信仰に結びつけたため、実の所一部逆行している面がある。

普遍についての洞察、おそらくそれが両者の差異なのかもしれないが(普遍をあくまで敬虔主義・統計的に導き出すという方法がおそらく現代なのだが、それで十分というわけでもない。)

プロテスタンティズムではある程度の非科学的なものは取り除かれたのだが、しかしながらカトリシズムでは神学という範疇で哲学や数学が学ばれていたのだ。

本文で扱われているベルナルドゥス、ベッケル、「意識と本質」もまた読み直したい。

ところでキリスト教思想を考察していた15-16世紀では、主にヘブライ-カバラ化(一神教/信仰)へ向かう部分と、多神教(ギリシア・ローマ/哲学・自然学)へ向かう部分があるように思うのだが、内面的な問題は枠組みの在り方に関連するために何に価値を置くのかという価値性にも関係する。

フィリアとアガペーを結びつけたのが近代(ルネサンス的な価値観)だと思っているのだが、アガペーとエロースの立場もまたあるように思う。我々が良い(憧憬)と思うものを愛するのも認証、自己保存の一部とはいえ、それは普遍的な原動力なのだと感じる。


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未刊行作品の「風景」も掲載されている。
じっくり読みたいと思った。

ほかに小説 「仮蜜柑三吉ー蛾」(いとうせいこう)等掲載。

慶應義塾大学出版会
2014-04-10