雪かきボランティアについて。

私は行政が求める無償ボランティアをあまり肯定していない。行政は住民サービスについて必要性を認めるならばそれはスタッフとして行うべきだと思っている。責任の所在があいまいなために提供される側も困惑する。
行政は社会全般が貨幣経済で成り立っていることを認識するべきで、それは基本的には人やものを動かすのは時間およびものであって、それらは貨幣経済の中でしか得られない。税で予算を組む行政にはそのことがあまり実感を伴っていないのではないかと感じる。

たしかにどのような条件でも無償ボランティアを募ればある程度は集まるのかもしれない。
しかしそれを最初から前提にするのは正しいのかどうか。

行政への不満→ 予算やスタッフを回すことが直ちに困難→ボランティアの募集→ ボランティア次第なので行政批判も回避できる

「何も対策してないわけではないが積極的解決もしたくはない」という意図がみえてくる。

何かといえば、サポーターという言葉を用いているが強制ボランティアに近いことも多く、時間を提供するだけでも困難な場合もある。それができないと、「そのくらいもできない」という批判につながっていくのはよくある話。

たまに思うのだが、「頑張って何かをしているからそうではない人は不十分だ」といって他人を批判するのは間違っている。「頑張っている自分(主観)」が認知されることと(快)、(比較の問題で)「楽している人を見るのは不快(主観)」という単なる欲求問題でしかない。

雪かきボランティアの条件をみているとこのような条件で参加するのは、就活などでボランティア経験を語るために「ボランティア経歴」を作りたい学生などしか思い当たらないのです。

もちろん自分ができる範囲で自発的に行うのがボランティアであって、雪かきは近隣住民で協力してやるくらいは自然なことであっていちいち強制力は働かないですが、個人的な事情というのは様々だし、見た目にはわからない身体不調に悩む人もいるのです。

無償ボランティアを募る行政は、体制が古くて社会状況変化に対応できていないか、スタッフ配置を適切に行えないからではないかと思うのです。
たとえば低賃金でも時間と人を動員したらペイが発生しないものは、制度欠陥があると思えます。要するに必要問題が生じているならば、すぐにボランティアを使う発想以前にやることがあるのではないかという疑問があるのです。問題整理や解決方法を考えてほしいと思うのです。



新たなスタッフを雇うのが難しく、しかし実行する必要ある事柄が増えた場合はとりあえず既存のスタッフで役割分担するのが一般的だが行政はやらないことが多い。 蛇足になりますが、一般的な店舗や事務所などが自らの店舗周辺を掃除するのはあたリまえだが、行政施設の周りはごみ多くや除草もできていないことが多い。パブリシティがないとかいう以前にこうした日常態度から一般感覚とのずれを感じる。 教師とか行政は貨幣経済の実情を体験するべきである。(すこし前の早稲田学報に教師の現実感覚の稀薄さを指摘した特集があったが概ね同感だった)