日常生活上では合理主義の立場からものを考えはじめる必要がある。
同一労働同一賃金について少し。

同一の仕事をしていたならば、正とか非正規といった言葉を用いるべきではない。なぜこうした差異を作るかといえば、それは同じ労働下にある人の不満を吸い上げることをしたくないがために、さらに比較対象を作って不満をその階層の自己肯定に利用するからである。
ヒエラルキーが動きにくい、階層移動がしにくい社会においてはよくある手法であって、これらはできればあと5年以内には何らかの手段をこうじるべきだと思っている。
もしこうした社会がさらに階層固定に走るならば、子どもたちはもう大人など信用しないことだろう。そうした不満は消費しない、といった消費社会否定をさらに助長させるだろうと思う。消極的態度よりは実感による正当な結果であろう。
すでに10代20代の世代間格差と上の世代への不信感は相当なものになっているが(・・・管理職以上の世代がほとんど10代20代と接しないために理解できないかもしれないが)おそらくこれらは静かに進んでいく変化だと思う。ただ、50-70代がすぐ思い当たるような形で暴動とか生ぐさい革命といった展開にも至らない。その代わりに、サイレントで決定的な消費しない、少子化といった抵抗はもっと深まるだろう。手遅れになってから問題を認識するのが我が国の常なので、誰かが認識してもあまり誰もまじめには考えないかもしれない。

「さとり世代」などとマスメディアでは彼らを呼んでいるが、大人になっても現実をあまり認識しないで生活しようとする高齢世代は「アポロ世代」のようだと思う。あまり地に足がついておらず、いまでも10代やそれ以下の子どもたちに「夢をもて」「頑張れ」といったことしか言わない。現実的に職業や生活について考えている十代には、暗い、夢がないと嫌な顔をする。むしろ夢ばかり語っていまの社会を作ってきたのではないのか。彼らの多くが未だに現実を知ることを避けて、夢見がちでいたいらしい。しかも彼らはフリーダムを重視するが若年者の服従を好むために、たとえ対話機会があっても、議論にはならない。彼らの多くの行動は「夢観る天文学者」であってロマン主義的である。
反原発活動を3.11以降に始めた多くの「活動家」もこうした傾向を持つ、ように思う。
ちょうど、原発を増やしてバブル時代には30代だったような世代がリタイア後に活動に入っている傾向。実証を嫌い、自らの思いを強める、補強し代弁してくれるようなテキストだけを読む読書家なので、議論やディヴェート好きと見えてまったく人の話を聞かない...こんな調子なのでこどもたちには声はとどかないが、それらを「今の連中はダメ、意識が低い」といった「意識高い系」発言をして、集まっては酒を飲んでいるという活動... がメインになってしまう。

以前ポストモダンの問題について書いた記憶があるが、原因は多少類似していると思われる。
物事は前の世代が枠組みを作ってしまった罪というよりも、その前提を問うことをしなかったために解決が難しくなっているということ。もう一つは、この枠組みの中で、生活する人の大半は前提を当たり前に思いすぎて、悲観あるいは諦観しすぎてしまう固定された(つまり能力主義ではない・努力が無意味になる)世界を補強してしまう問題を指摘しておきたい。世代間のかみあわなさははたから見ていて残念に思うことが多い。長くなったが、年長者には寛容という美徳が必要だ。 日本は中世的だ、という意見があふれているけれども、単一的価値観になったときの閉塞感から比較されている中世よりもさらに中世的であって、しかも中世的社会のメリットは残っていない。世界が単一的で在り方に多様性が認められないと人々が思い込み実際にそれが揺るぎない、そうした認識が広くみられるようになっている。思い込みたいひとは自覚するまで仕方ないのたが、前提を考えみる時期に相当していると私は感じる。どうもあまりまとまりに欠ける文だが、書き留めておきたい。

人は変えられないし、単純な世代批判も的をえないとは思うのだが、10-20代が50代以上に抱く世代間対立は相当に高まっている。

それはそうだろう、変化を自覚せずに他者を貶めたり理解しようとしない態度から何を学べというのか。ルールは途中変更されるばかりで、負担せずに保証された世代に保証なしに負担をおわなくてはならない閉塞性。少子化にはいくつか原因があるがメンタリティとしては他者と共有したい社会でないと皮膚で実感しているからである。つまりそれだけ表面化して現状はよいと思える要素が消失し、魅力が急速に失われている。子どもにこのように感じさせた時点ですぐに解決できない事柄になっているのだが、少なくとも職業・就業・進学に関して更に温度を下げていくべきではない。
正社員だから関係ないという考えはより危険で、その立場は生産性が落ちる40前半から今後も切り捨てられるか縮小される。単一労働が本来同質かつ、クオリティに対する評価が本来的になるほど、正社員価値は下がるからだ。(いまでは平社員という呼称は使われなくなった) 仕事に責任が増えると創造性は制限されるが、ひとの能力のうち代替できないのは創造性の部分である。年収での立場評価より時間や拘束性でクオリティを考えたほうがよい。 変化のただ中にあっても、変化から遠ざかっていても、変動には気がつかないことが多く、大半の間違いは早すぎるか遅すぎるために起こる。この社会では大半は遅いことと、修正的ではなく懐古あるいは復古的なためにそれはおこる。 しかしながら個人の能力はよりましになっている、そのためか自己責任という言葉が頻繁に用いられるようになった。こうしたギャップに対してあまり説明されない感があるのだが。 社会批判で若者やゆとり世代叩きのような風潮があるが、実際問題はもっと他の事柄にある。