物語近代哲学史〈2〉デカルトからカントまで
これから書きとどめることは個人的な覚書かつ疑問のひとつなのだが、誰かが似たようなことを感じているかもしれないし、どのようにバランスをとればいいか容易に答えがでない事でもあるために書き留めておくことにしたい。
そしてルチャーのアダム・スミスについてのコラムが秀逸だと思うためでもある。
以下抜粋。




「私は告白せざるをえないのだが、自分は利己主義だし、友人マリオよりも儲けたいと思っている。私は一生懸命がんばり、より以上に働き、より以上に儲ける。でもマリオも利己主義であって、彼は私が彼より金持ちになるのを観て、なんとかして私を越えようと努める。ところが、私たち二人の後ろには、私とマリオを一緒にした以上に利己主義のアントニオが控えている。(略)こうしてついには、欲せずして私たちは国民総生産(GNP)を高めることになる。利己主義だった私たちが、慈善家になったのだ。
しかしこういうすべてのことが生じたのも、連帯感をもつ人びとがいなかったからこそなのだ。後者がいたなら、私、マリオ、アントニオに対して、儲けすぎだと非難し、私たちの報酬を減ずるための一連の法律を考えだすことになるだろう。
そうなると社会保障制度、つまり最弱者の救済に備えた法規総体が発生する。

一国の富の原理は相反する二つの感情(利己主義(右翼)と連帯感(左翼)から生じるということである。最適条件に到達するのは、二つの感情がバランスをとることができ、相互に有利な地位を占めないようになるときであろう。
たとえば、共産主義は利己主義を忘れたからこそ失敗したのである。
(略)

投票用紙記入所もシャワー・ボックスみたいであるべきだろう。右手の蛇口には、利己主義、左手の蛇口には連帯感と書いておくべきだろう。私たちとしては、政治状況に応じて、二つの蛇口をひねり、適度のお湯が出てくるのを見守ることになる」

以上が、ルチャーによるアダム・スミスについてのコラムなのだが、興味深いし、さまざまな活動や原動を観ているときに、このコラムを思い出すことが多い。

過度の連帯感は結局は、全体のためにはならないのであって、過度の利己主義は不幸を生む。「適度さ」というのは意外と難しいことなのだが、すべての原動には必要なものだ。
「みんなで」というスローガンは、結局誰のためにもならないことが多いのだ...
我々が自分ができることをしたときの集合体は、結果として「全体の利益」に繋がるのであって逆の考えはロマン主義的、というか「皆のため」という感情の利己主義にすぎないのではないか。生産に従事する人が皆のことを考えていない、であるとか、慈善活動をしているから善の立場にいるということではなく、慈善とはもっと自然的な結果であってほしいものだと感じることが多い。


もちろんこの記事を書くにあたり、社会保障について否定的なことを主張したいのではない。右翼とか左翼ということについて特別主張したいことでもない。(この二つを簡単に他者にむけて発すること自体を好ましいと思っていない。加えて、この言葉で片付けられるほと単純な世界ではもうないのだし、二者択一的な世界観を肯定していくべきではない。)

しかしながら、生産や価値を生むことなしには社会保障は生まれないし、逆をいえばセーフティネットは現在の状態では脆弱すぎるとは思う。不安があれば人は活動できない。
ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房
2005-07

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