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Albert-Karn美術館の改修には公募から日本の建築家が選ばれ、縁側がつけられたとのこと。(フランス観光庁からのお知らせ)


縁側、母方の祖母宅は築200年の日本家屋で、夏休みや冬休みには決まって何日か滞在した。湯殿が別にあり、門は二か所、二階だての蔵は閉じ込められた経験がある人にはお化け屋敷的な経験、私のようにそこで生活していない近親者には、白壁の大きな裏門に通じる建物という認識で、大切にされてきた家屋建築や写真などとともに何代化の人の生と秩序を記憶するものとして「美」しく感じられた。庭には小さな池があった。私の実家には錦鯉が50匹以上いる本格的な日本式庭園があったので(正確には祖父が受け継ぎ保っていた)それは小さなと記憶されるのだが、その池を囲むようにして広い縁側があった。
実家もまた祖父の部屋、書斎の前に縁側が設けられ、部屋にしつらえた雪見障子の内側で餅を家族分焼くのは私の役目だった。雪をかぶった庭の景色をみることもたびたびあったと思う。


家はそこに住む人が自由(これは放埓ではなく、与えられた責任は果たす前提で自ら行動するという意味を含む)に暮らす空間で、かつ季節の草花を取り入れ、額の絵画を替え(日常空間で変わる、ことが知覚されればそれだけ人の手の加わり方で「変わる」ことが認識できるのではないか)機能性だけではなく「美」という秩序で整えるというのは、祖父から受け継いだことなのかもしれない....買うことだけに頼らず、竹を使って素麺用の食器をしつらえたり、暦のそばにはペン差を日曜大工で作ったり...祖父は亡くなったが、祖母の家(上記とは別の家。実家の敷地内にある)を訪れると私が10代以前に作ったと記憶しているそうしたこまごまとしたものが今も残っている。今も使えることと、それを使うことがその人の記憶をつなぐものに無意識になっているのかもしれないのだが。

母方の祖母の家は、夏でも広い縁側を昼間は開け放っていた。
空調はない。
井戸の水は夏も冷たかった。
やはり母屋から長い廊下に続いてあった手洗いには夏は風鈴がかならずあった。

これらは十数年前の記憶だろうが、季節を肌で感じなけければその移ろいも気が付かないだろう。目や耳で感じられる移り変わりを認識することが、世界そのものと自らを結びつける面となる。

それらをよさ、利点としてとらえられるのはむしろ日本から遠く離れたフランスなのかもしれない。

ルーブル宮もまた公募によって建てられた建築であって、イタリアの影響を最も早く取り込みながら、いかにそれを「フランス式」にするかが急がれたのは、唐風から国風を急いだかつての日本のようでもある。しかしまた、もしもオリエンタリズムとは別にジャポニズムがモダニズムの代名詞としてのみとらえられるならば、それらは美ではなくアイデンテティの快さに拠っているのではないだろうか。だが他方、もはや居住空間にあるべき縁側は、暮らすことの主体である家では再現できないほど、空間は制限されている。無論、それは都市集中と住居価格においてである。この前提から脱却できるほど、われわれはモダニズムに以降可能なのだろうか?
誰かが決めた前提を問うことももはやしないのだろうか。