国語現代文の問題、あるいは出題者が求めている「答え」に変化があるのかどうか。しばしば、ある事柄について「あなたの意見を書きなさい」という問題が出題される現代文。時事的な事柄よりも、より日常的でそれほど重要ではない問題が出るのだが、最近の傾向は「インターネットの情報」と「出版文化」についてどちらが「正しい」のかどうかを、教師側は「問いたい」ようである。
それを考えてみることはよい、しかし同質のようで非なるもののいずれかの優劣を決めるにはそれらの差異を明かに述べるほうが、まだ「作文」の問題としてましに思えるのだ。そののちにいずれかの立場を述べさせてもよいのかもしれないが、「そもそも異質」なものなので結局はそれらは「好み」を述べることになる。差異を記述する手続きや文字数を問わないなら、それは「好きな(感情)理屈」を述べるにすぎない問題になってしまうだろう。

記憶している問題の中で問われてきた内容を思い出してみた。
「自動販売機で買い物するのはよいことか」
「スーパーマーケットで買い物するのはよいことか」
「手紙とメール」
「テレビと新聞」
「テレビゲームと外遊び」
・・・・などなどだが、この手の問題の問いの設定が未熟であることと、一過性が見えないだろうか。しかし同時に同じ問題意識に貫かれているともいえる。いずれも「コミュニケーションの問題」を扱っているように思われる。加えて前近代的なノスタルジアもあるかもしれない。買い方、方法の問題は問われないので、この手の問題は常に出題されつづけるだろうし、もとめられている答えも決まってくる。逆にいえば先に述べた理由、「好み」の問題に始終するために、真剣に考えられる問題とはならないのだろう。
どちらを好むか、ということに(国語科目的道徳観?を交えて述べることに対してはさほど価値もない、ただし義務教育では自分の好みや立場くらいは平明に文字化できることが望ましいとは思う。)変わりなく、しかもいまや「自販機はよくないのではないか」などという問題は出題されない。学童期をすぎ、なぜ日本には自販機がこんなにあるのか!ローマやアテネのようにキオスクやタバッキで売り買いするほうがよいだろうに、とは思いはするけれど、すくなくとも現在で「自販機」を問う問題はない。スーパーマーケットも、また電話や手紙かという問題も出題されるわけがないだろう。つまり一過性の問題意識しかなく、人とのコミュニケーションの希薄さ、だけは常に20年たっても30年たっても問われていることになる。

都市化、スプロール開発が進むにつれ、コミュニケーションと場の問題は問われ続けるだろう。また、それらは本当は「都市化」ではなく、単なる「開発」(というと聞こえはポジティブだが実際は?)にすぎない。

世相を問うような問はこれからも出題されるだろうが、こうした問いは「望ましい答え」が設定されているから、それを書けばよいし(本当はよくないのだが)、その程度なのである。

いうまでもなく、出版されているものがすべて正しいわけではないし、ネットの情報がすべて疑わしいわけでもない。資料引用であってもURL、日時を記載すれば根拠と認められる傾向になってはいる。そしてウィキペディアの情報は概してあてにはならない。重要なのは、信用に足りる情報を見分けることと、その条件なのだが、あまりそのことには触れられていないように思われる。

差異をできるだけ明確にすること、それをさせないように、あえて「好み」の問題にすり替えて出題されつづけているとしたら、またこの方法で物事の是非を決定するような慣習が続けば、おそらくは問題はおきざりにされてあと30年同じ問題が横たわりつづけるのかもしれない。方法と選択肢が増えてもそれが「自由」や「幸福」に結びつかず不安や迷いが付きまとうのだとしたら、何か根本的な問題に欠陥があるのだ・・・しかも単に「昔はよかった」というノスタルジーという「好み」の問題では決して解決はできない。

私はときどき感じるのだが、技術が生まれてもそれを活かせる社会的な方法知や基本的意志が共有されていないので、ツールが増えても何かを改善できるような力にはなり難いのはそのためではないかと。