パドヴァのマルシリオ。(マルシリオ・フィチーノとは異なるが、彼の考えもまた興味深い。私は中世政治思想をもし学ぶときは彼の考えを中心に学びたいと思ったことがあるし、今もまた変わらない。)

ダンテに少々触れたので、今少しルチャーの本から引用したい。

「マルシーリオは1275年パドヴァに生まれた。そして子供のころからアヴェロエスの熱心なファンだった。アヴェロエス主義者として彼は霊魂の不滅を信じなかったし、したがって同時代人ダンテ・アリギエーリには悪いが、天国も煉獄も地獄も信じはしなかった。『新曲』はマルシーリオにとっては一篇の詩作品にすぎなかった。むしろ彼はダンテをノン・ポリと判断していたのであり、これも間違ってはいなかった。なにしろ、この詩聖は政治に関してはグエルフィ(法王)党白派に属していながら、いつも好き勝手を働いていたからである。略。

マルシリオを読めば読むほど、私は法廷のモットー、「法は万人に平等なり」の創始者が彼だったのではないか、と信じさせられるのだ。・・・・」


ところで、普通選挙が現在の形になるまでには多大な道のりがあったわけだが、今年の春にある小売り(大手企業)の現場にいったときに、そこにいた十数名の人たちが「今まで選挙なんて一度もいったことがない」と言っていたので正直驚いてしまった。一度も・・・?税を納めるだけでその再分配や税率を決めることに対して、ほとんど唯一の権利である(がゆえに、効果に期待できず投票にいかない、ということとはまた別のようだ)のに、まるで関心がないというのだから(20代から50代にわたる)・・・税の再分配に無関心(ですまされるのだろうか)というのは、もはやこれまで・・・大多数のノンポリ(これは別にそれほど問題はないとしても)の無投票、他方で組織票の思考停止状態、これで適正な社会を形成できるわけがない。

私は時々、現代に居ると認識していながらも、まるで至福千年の辺りに心性は退行しはじめているのではないかという心持になる。この諦観の雲の厚さは。

それから「あえて棄権」という意見も、振る舞いとしてみたときには、投票に行かなかったという事実にカウントされるのだから、あまり意味があるとは思えない。主観の強さが主張になるわけではないのだが。

・・・・投票とその制度をみていると、どの程度、自国の民に賢明であってもらいたいかという意図がみえてこないだろうか。つまりあまり、考えたり、判断できたりする人間が国民であってほしくないのかもしれない。だがそれを助長したところで、結局はその人のためにも、共同体にとても、国にとっても良い結果には至らないのに?


ちなみにこのような記事を書いているのは、何か特定の選挙結果などに反応しているわけではなく、むしろ期待値も改善していく余地もほとんど見いだせないという、心境による。

人々には失望はしない、むしろ個々人とのかかわり、対話、交流だけが、最後に残る価値のように思うのだが、ほとんどの人々は、それすらも自ら切り捨てていくように思われる。奇妙な空虚さの充満。対話の時間と場の消失。これらも意図的なのかもしれない。前提を問うべきである。
人にNo,が付与されたときから、人間性の消失は始まっている。


近況:イングリッシュ・ローズとオールド・ローズは2度目、3度目の返り咲きをしています。珍しい状況。
軽い風邪気味。小康状態です。計画より作業が遅れがちで焦りますが・・・


王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために [単行本]
著者:ジョルジョ・アガンベン
出版:青土社
(2010-02-23)


社会問題やソーシャルワーキング的な立場の方が、フィロソフィアの意味がまったくわからない(という時なぜか、わかりたくないし無関係というニュアンスが笑顔とともに答えられる場合が多い)と聞くけれども、何かの事柄を具体的に扱い問題解決を求める際に、問題把握と、方法、あるいは制度、人の在り方などを考える際にだってフィロソフィアは役立つ、といえると思う。こうしたことを学ぶとしてもお金にならない(価値がないと言いたいのだろうか)という意見も多くあるが、すくなくとも!学ぶことで、大きな損はしない、騙されることは少ない、しらないうちに絶対的な支配を受けるようなことがない、そういった選択ができる、と感じるのだが。そうはいっても、嘘をつくことにあまり罪悪感を抱かない国民性なのか、誠実に嘘を突き通す、という場合は・・・もう怒る気力もなくひたすら残念だと感じる。残念や諦観は厚い雲のように、それこそ全体に覆いかかっているように感じる。



宗教と権力の政治―「哲学と政治」講義2 (講談社学術文庫)宗教と権力の政治―「哲学と政治」講義2 (講談社学術文庫) [文庫]
著者:佐々木 毅
出版:講談社
(2012-11-13)