人間は自分より容易なものは理解することができる、それが難しい場合は想像力を使い意味や意図、言語を理解しなくてはならない。
しかしこの自分がわかっている
という状態こそが誤認の場合、日常であれ学問的なことであれ、この問い直しが不可欠であろう…。もう十分だ、という人はそれ以上の思考はしない。判断停止は思考や行動に必要だが、おそらく思考停止がつまづきの石になる。しかもそれが個人の問題に留まることは少ない。

哲学を第一の学問として高校の教科にすべきだろう…

無論、例えそれで何かをわかったと思いこむのはそのひとにとっては良いことではないが、思考停止が一般化するよりは我々にとってー…悪いことではないだろう。

理解するとは心とともにいく、understood の意味もおそらくそうであろう。

自分より理解が難しいもの、当然ながらこちらのほうがより圧倒的に多いわけだが、その場合は自分から理解しようとちかづかなければならず、自分に引き寄せてはならない。如何に自分の認識を確かめつつその境界線を破り理解に近づけるか。

難解さを装うものと難解なものは異なるがそれはおくとして、理解しようと思わないことで多くの弊害を生む。
読むこと、話を聞くこと、その意味を対話的に行えればよいが、主張欲が強い場合は対話による理解を妨げることになる。

時に不幸なのは、解らないことを相手に語るときに、自分がわかっていることから離れ、対象化することを怠り、一方的ななか、そのことを指摘しても理解しようとしない場合、それはおそらく個人であるまえに立場がアイデンティティーとなっているからか、解らないものはないとドクサのなかにいるからかは解らないが、…観ること、聞くこと、自分の殻を自ら破りさらに作り替えていくことでしか保つこともできないように思う。

もっともこの自分を確立するものがつねに薄い膜のようになることも多々あるが、…

マリインスキーの感想はまた改めて。書き物に例えるならば一読して解ったと思うレベルをはるかに越えているので、クラシックでそれを感じるのは古典時代のレトリックなみに慎重さを要するがそれを現前することは、またなぜバヤデルカが演出上重要な違いを持つのか。


さて、人が何かを書き残す原理は何かに危機を持つか苦痛の感覚に抗うときかもしれない。さらに本質的に一人であるという認識がなければ人は意識せずに傲慢になるであろうから…。