プリーモ・レーヴィは語る―言葉・記憶・希望プリーモ・レーヴィは語る―言葉・記憶・希望
著者:プリーモ レーヴィ
販売元:青土社
(2002-03)
販売元:Amazon.co.jp






「『審判』は我々の目を開いてくれます。同書の結び、最後のシーンのことを考えてみてください。
真っ青な空、そしてあの二人、あの殆どしゃべらず、馬鹿みたいに誉めあって、状況にまったく無関心な二人のロボットのような奴によって実行されるあの処刑方法。この二人は処刑の方式についてはすっかり心得ており、自分たちの受けた命令通りにすべてが精確に実行されることを望んでいるのです。
とはいえ死刑です。二人は心臓に突き刺した剣をぐるりと捻るのです。・・・・・」


「・・・そうですね、何というかある意味でこれは私の質なんでしょう。生まれつき割合楽観的なんです。
またある部分では心掛けてそうしているんです。
読者、つまり人類、一冊の本を読む全ての人々に対して、悲観主義を注ぎ込むのは悪質な奉仕の仕方だと思うのです。悲観的だということは結局、両手を挙げて滅びるままにさせると言うことです。破滅の危険が実際ある以上、唯一の対応策は、袖まくりをすることです。何かをするためには、身を守るためには、楽観的であることが必要です。さもなければ戦いにもいけません。そして戦いはあるのです。

・・・・私は意識的な形でも実践しています。つまり、敗北主義的でないメッセージを伝えることが集団のためになることだと思っているのです。勿論、いつでも楽観的でいるのは易しいことではありません。その度合いに十分注意する必要がありますし、可能な限りそうあるべきだと思うのです。」




レーヴィは、ある種の科学に対してはもう十分だ、と科学者自身が言うべきであると言っている。
このことに同意する作家や著述家は多いし、そのこと自体言われてきた。
しかし、レーヴィ自身が化学者であり、それゆえに本当にそのことを、ある種の科学に対して科学者自身がNOというべきであるといっている。
こうしたことを、つまり内側からそのことを言う人がどれほどいうだろうか。
実際には、私の周りにもそうかんがえている人はいるのかもしれない。
しかし、そういった話題、声は「壁」によっても、または意識的に無視しているためなのか語られることもすくなく、
人はさらに「大多数のひとびと」と自己とのギャップを必要以上に感じてしまうのかもしれない。

・・・あるいは、「本当に」・・・誰もそのようなこと自体考えたり、必要性を感じている人は(私を含め)ごく少数か、あるいは「いない」のかもしれない。(そうだとすれば一層、努めて楽観主義的でいる必要があるのだが・・・)

しかし、意識的な実践にも限度がある。

レーヴィの「語ることば」に驚きを感じるのは、それが自分も、つまり私も常に思っていたことが明瞭な言葉で活字になっていることだ。平易な言葉で、複雑なことを言っているのであって、明瞭に不安や問題が語られていうからである。

「期待することと忘れないことは同義語でも反対語でもなく、十分一緒にやって行くことが出来ます。」

CONVERSAZIONI E INTERVISTE 1963-1987

Primo Levi 


以上は「レーヴィは語る」から私が部分的に引用したもの。どこかの言葉に惹かれた方は自ら繙くことをおすすめします。固定観念にしらずしらずに取り付かれて思考停止になっていることがら、観点、具体的な事実が短く平易で正鵠を得たことばで「語られて」いるのだから。




そう語っている彼の言葉は同時に彼自身にも向けられているように感じる。

だがそうして実践していたとしても、圧倒的多数の人が期待するだけで実践せず、他の何も鑑みることなく、むしろ忘却すること、考えることも実践することもまったくのぞまないのならば?

これは私自身も感じていること(しかも絶望的になってこうしたことを書いているのではない)だが、自宅から身を投げて自殺したレーヴィの心境はわかるし(あくまでも憶測にすぎない)しかしそれは個人的な感情からというよりも、偶然か必然か生き残ったものたちが世と人々との隔たりゆえに、きわめて理性的に終止符をうったように考えられるのだ。


・・・・・・

終止符は、意図して打つべきである。,(カンマ)と同様に意識的に区切りをつけるか否か。
ピリオドは必要で、それも自ら打たなければならない。