心的なことがらをどうとらえるかということについて。
かつてある大学併設の機関で、エンカウンター、カウンセリング理論について学んでいたことがあるせいか、読解あるいは理解する際に、感情的なものを含めて「何が言いたいのか」「どういった立場からこのことを言うのか」ということを数年かけて行っていたことがあります。
ロジャーズ理論を用いたこの方法は、しかし、分析を多用するために、突き詰めると自分の立場を容易には表出できなくなる。また、何が言いたいのか、またはなぜ遠まわしな表現をしなくてはならないのかといった立場を捉えるため、それ以上踏み込んではいけない領域を確保しながらコミュニケーションをとる癖がついてしまう。

また相手が言うこと、および、感情的・不安な心境といったものを共有する形で「私の不安」として入ってきてしまうのである。

モビリテ−・・・動かされやすさ、ともいえるのかもしれないのだが、これは単なる優柔不断ではなく、相手が置かれている立場を受容する手続きの中で起こることである。

問題なのは、私が了解したことを了解したくないという場合には、それ以上何か言えるのだろうか?

逆に言うならば、もしあることを理解しようとするならば、なぜそう捉えたいのか、何を言いたいのかというところまで遡行しなければ理解できない。


私がメールやネット上のやり取りを好まないのはそういった理由もあるのかもしれない。なぜならば、多大な誤解もまた起こりうるからである。

またメールやコメント、ツイッターなどは反応の速さが重視される。だが、それを受容した相手の立場をいちいち考えないでもよい、自分さえ発信できればよいという一方的なものを、コミュニケーションツールと捉えるのは抵抗がある。

一方的であったり、相手の立場を思いやらなくてもよい、という人にとっては便利なのかもしれませんが。
しかしこうした情報のやりとりによって、より閉塞的な状況、分断された時間と自己といったものが拡大しないとは限らない。