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写真は昨年のエイブラハム・ダービー 、アイスバーグ、ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ。

タイトルおよび、「数学のおかげで神の存在証明をすることは可能か」

「自然界にはゼロ、無限に等しいものは何もない。皆無である。これらは感覚ではとらえられないものである。両者の掛け算をすればどうだろう?
無意味な産物を手にすることになろう。どんな数もゼロに掛け合わされるとゼロに等しくなるし、無限も同様である。」

・・・ヒュパティア、ゼノン(エレア派)もまたこうした観点から考察していたといわれるが、(この場合の神とは、それぞれの民族の超人のような概念ではあるまい。パルメニデスの有に近い(と思うのだが。ゆえに薔薇を育ててている人もまた、人為では見出せない自然に在る光とか美を見るために、すくなくとも手間暇をかけている・・・場合もある)

物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2003-11)



私の場合も、量的理性までは想像が可能である、そして気がつかないままだと、そのままその無限の広がりがあるという気持ち(思われ)になってしまいかねない。私としてはブレーキをかけている。(つもりであるのだが、時々わからなくなる)家族が物理学からこの無限概念に取り組んでいたので、口に出すこともできない。・・・・。

ナポリ大学で数学と工学を学んだルチャーはこう結語している。

「神を見つけるのは棒高跳びをするようなものなのだ。選手は少し走ってから、バーにぶつかる直前にジャンプする。数学でも大なり小なり同じことが起こる。
つまり推論をもって助走し、直観をもってジャンプする。私がお手伝いできるのは助走だけであり、逆にジャンプするためには読者諸賢がすばやく一人でやってもらわねばならないのである。」


私が昔行った競技は、気の毒にも棒高跳びとは逆の概念であろう、走り幅跳びと短距離、リレー。今私が、一人で動揺したり迷ったりしている問題でも、推論から助走まではよい。だが、バーを超える前と超える際にも、しかも超えられたかどうかという実感も、着地、すなわち論のおとしどころも、逡巡してしまうのだ!
量的理性をこえたものを思案するのはなかなか、大変であって・・・
そしてまた推論しない知性であるとか、推論を用いずに行う論に対する理解が足りているのか?という疑問が尽きない。
(実を言えば、私にとっては推論しない直知とはそれほど不可思議なものではないのだが・・・)

尽きない疑問なのだが、たとえば誰にでも口に出してよい話題であるともいえない・・・・ゆえに、逡巡と言葉が迷子になっていくような気になる。
集中して考えられる場であったらよいのですが・・・・


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パルシステムの芽キャベツ入りシチューを作ったとき。

少し前はわからなくなったら、実用をかねて料理・・・ということができましたが、ここ最近はその余裕もなくなってきました。
こうしたことを現代では日常と両立しなければならないことのだが、私にとっては容易ではない、しかし、やらないで済む問題でもない。
とはいえ、お弁当作りや、野菜スープなど、最低限の料理はしてますけれども・・・「被造物大全」を執筆しながら、トマス・アクィナスも焼きそばづくりに追われたりはしておられまい・・・

アンセルムスが、古典研究に没頭することを父親から禁じられ心身ともに弱ってしまったという心持がよくわかる、のでした。

とはいえ、現代では世俗的生活をしながらこうした研究ができるということを幸せに思うべきなのだろう・・・・とはいうものの、私としては、そのことを理解するためには、このことに没頭できたほうが幸せなのである・・・
(自分がやっていることのために、娘やらにこさん、家族に迷惑をかけるわけにはいかないのです。しかし限界もある・・ 他方、いいかげんなものを書くわけにはいかない。)

別の問題は、テキストの著者(フィチーノ)も、逡巡して不安になっている(ように見える)箇所があり、しかもその動揺の理由が解る(ように思う)だけに・・・

とにかく集中できる時間を捻出するためには、世の中が眠っている時間帯にそれを成す必要があるということです。