バレエは表面的な美しさだと思われているが、それだけに留まらない。
どう違うかと言う説明はあえてしませんが・・・
それはオペラ座学校のレッスンや教育方針をみていれば、わかるはずです。アカデミーの起源なども同様。



ルネサンスの芸術および学問、思想を学んでいると、現代でこれを継承しているのはパリ・オペラ座バレエがまず筆頭に浮かぶ。映像はデフィレ、ライモンダの一場面、バランシンなどが取り上げられている。(ドロテ・ジルベール、バンジャマン・ペッシュも)

新書館のオペラ座バレエ学校レッスンDVDを観ていて改めて思ったのですが。

フィチーノの著作には技芸(ars)について言及がある。
(残念ながらこの著作自体の翻訳は日本にはない)

「手に頼る学術を人は「技芸(ars)と呼ぶ。それらはとりわけその鋭敏さと完璧さを数学的力、即ち、計算し、計測する能力に負うている。これらはなににもまして、ヘルメスと理性の職分なのである。この力なくしては、これらの技芸は幻想のなすがままに狐疑逡巡し、想像と経験と憶測の玩具となる。」

オペラ座のバレエも感情、優美さとともにこの理念にのっている(厳密な階級秩序に則っているのもそのためでしょう)、と私見では考えている。
そして美とは装飾的なことのみによっているのではなく、「憧憬」「善い」「正しい」といったものを呼び覚ますもの。
簡単にいうと感動ということにもなりますが、感情に留まるものではない。それが「言葉」「言表」であるパの組み合わせと音楽というとも詩的なものとして表わされている。

平たく言うならば、よく日本バレエ団のコール・ド・バレエはそろいすぎて違和感があるという評論をみるが(その意味では佐々木涼子氏の感覚は理解できる)、それは本当に必要なのは「統一感」のこと、「あらわすべきもの」があるかないか、そういうもののことを言っているのであって、行進や体操のようにそろえればいいというものではないからだ。勿論、動きをあわせるとか、場所をそろえるということは不可欠なのだろうが・・・
言うは易し。
だからこうした表現ができる人を私は心から尊敬する。

逆にいえば、こうしたことが解らずに評論が書かれていると、複雑な気持ちになる。だれかが読んで、「自分も見てみたい」と思うのか?と・・・


マニエリスムは時に批判されるが、精緻な技巧なくして感性だけで作られるものは、美的ともいえない場合も多い。
練習は不可能を可能にする(と自分にも言い聞かせているのですが)

完成に向かう意志がなければ、それは終わりのなさをもたらしてしまう・・・

ところでよく聞かれるのですが、バレエフェスに関して、今はレッスンも増やせているものの試験もあり、夏以降減らしていたこともあり、今年はヴァリエーションなどもやりませんし、そのために遠方や休日に脚を運んでもらうのも、時間を創っていただくのも悪いような気にもなり・・・
 
勿論作品自体が全体として美しいかどうか、それが創り上げられているかを観てもらい、他方、創り上げるために尽力することが学んでいる人にとって一番大切なのですけれども。

実のところ「パリ・オペラ座のすべて」でも技芸によって保たれている価値が薄れ始めているのがルフェーブルや教師陣のなかに問題意識として描かれていた。アカデミーの歴史をみると、美を生むことの意味が理解され実践され実現されるのも早いのだが、衰退するのもあっというまなのだ>絵画彫刻アカデミー。100年後にはそれは薄れ始めてしまう。
しかし進化という点では、私見ではドロテ・ジルベールやマチアス・エイマンをみればその輝きは衰えていない。こう在りたいと思うことでそれに近づくことができるという"類似”の例を観る想いがする。