数日前の新聞記事で電子書籍の売り上げが紙の書籍を抜いたという内容のものを読んだ。私はといえば、時代潮流にはあまり身を任せないほうなので、この何年かといえば紙の書籍を購入していたし、今もそうなのであまり実感はない。

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安藤孝行氏によるジルソンの「存在と本質」.
この本は安藤氏が訳し、自費で出版されたもので、私の家にあるのも、著者に直接手紙を送って、入手したもの。
訳者序文にはこうあるので引用させていただきたい。

「もし20世紀における哲学、哲学史の最良の書を1冊だけあげよ、と言われたら、私はほとんど躊躇することなく本書、エティエンヌ・ジルソン 存在と本質 をあげるであろう。それがこの同じ世紀に生まれあわせて、約半世紀の哲学研究を重ねて来た訳者の、何の誇張もない真情である。」

いつも利用している図書館にももちろん在架している。
私は自分の家にあるものを読んでいる・・・
安藤氏の言と真情という言い方が実によくわかるので、これを翻訳し出版されたことに敬意の念がおこる。

賢明であろうとすること、また有されるべき知というものが、2100年代になったら何も残っていないのでは、などという気持ちにもなってしまう。
現に有史以来、そういうことは何度もあったし、どのように書物が保管されたり、翻訳されたり、読みつがれてきたのか、命脈をたもってきたのか、または散逸したのかということをいつも考えてしまうからかもしれない。



現在では、「ブログから書籍化されました」とか「自分のブログを書籍化する」とかいうビジネスもあるようだが、・・・どうぞ気の済むように・・・、とは思う反面、実のところそれはただの自己満足であろう。
「自分」「オリジナリティ」とかいうものがそれほど価値があるとは私には思えない・・・自己表出がこれほど重視されるのは、社会的あるいは日常では「自分」が見えずらく、確認することが困難になっているせいかもしれない。私には自己表出と思われているものこそが、「引き篭もり」のように感じるものがあるのだが。

だが自己出版というのは私は、商業ベースにのることを目的として著述や創作をするという立場よりは価値があるとは思う。
(ただし無条件ではない。また趣味的なものは含まない)
それは、書くことが、頼まれて「書く」というものが著述ではあるまい、と思うからで、私の周りには自分から家や都市、経験といったものを出版する人は割に多かったからであるかもしれない。

換言すれば、依頼によってのみ書くことを生業にする人たちは、「頼まれること」「依頼される限りのこと」しか書こうとはしない面がある、という面がいまなお強いのではないか。
それで、メディアに書かれなかったことがら、頼まれなかったがゆえに、書かれなかったことがらや価値は? 
おそらく、失われ顧みられる機会は多くはないだろう。
そうして残るものだけが「時代の価値」になっていくことはどこか抵抗がある。・・・

時や場所を越えて読まれるものというのは、時代の潮流に迎合していたものでない場合が多い。逆にいえば、今売れているものの大半はそのときだけのものだ。その時代にどういうものが好まれたのかというものを示す資料にはいいのかもしれないが。
一例を挙げるならば、シェイクスピアですら18世紀前半ではまだ異端扱いされていた。
ランボーは自分の詩がパリで出版されていたことを生前知る事はなかったし、宮沢賢治の作品は当時まったく出版社から理解されなかった。
マラルメの詩集は自費出版で初版は47部しか印刷されていない。
ゴッホの絵画は生前1枚も売れてはいない。


価値とは何か。
私にとっては、ものが安ければ安いほどよいとは思えない。

日本のような出版事情では、
絶版になるほうが恐ろしい!
(よって、私にとっての最後の砦的なものはちくま学芸文庫であるとかちくま新書のようなもの、平凡社ライブラリーであるとか、みすず書房の復刊シリーズなどである。)
価値ある文献をじっくり読みたいと思っても、もうない本もある。

(それだからこそ、中世やルネサンス期などでは書物とは所有するものというよりも頭の中に蓄えるべきもの、あるいは書き写すものであっただろう。)

それに市など公立図書館では、「あまり借り手がいないから」というレベルの判断で、貴重本がリサイクルブックとして放出されている惨状なのだから。こういう憂慮は私が90年代の末に書籍や出版に携わっていたせいもあるだろう。2000年代に入ってももちろん関わってはいたが、情報や本というものが随分と変容したと感じる。感じるというより、何が残るのか?という疑問は常に在る。

電子化といえども電源という限定をともなう+故障などのリスクを考えるとあまり便利ともいえない・・・いつもかばんには数冊本が入っている。
(もう手に入らないか、電子化かといわれたら電子化だが、だが電子化されるゆえに紙の書籍が役目を終えたと判断されるのも危険では。ハードという前提がなければ誰にも読むことができないという場合がおこりえない、とはいいきれないからだ。)

言葉を書くという行為は、無意識(この言葉も都合のよい言葉だ)に行われてよいものではない。私としてもそれを自覚するがゆえに、何も言わないほうがよいのでは、と思うことのほうが多い。

書くことによって、生じる効果や影響というのは
 公共的に、知を共有できる(かもしれない)

ということに多分に寄っているし、それはある種の危機を感じるがゆえに、価値保存(私としてはこれを自己保存欲とは区別したいのだが)のための意識が働く。
だからつねに緊張をはらむ行為となる(ならないならば認識が足りていないのだ)
有害なものは、人を真からさらに遠ざけるような誤りの言葉はないほうがよい。
古代エジプトでは書記は最高権力者でもあり、神官たちの道具だった。
別に意味では中世のイタリア自治都市では、ほとんどの市民が読み書きや算術といった合理的で基本的な技術を持っていたのも、それが「力」だったからだ.

今日では、意図的に何もしらないようでいることに全力をあげているかのよう(にみえる)。情報やデータは持っていればそれで価値があるというものではない。それを適切に用いる必要がある。

あるいは言葉によって他者が生きることも可能となることもある。
誰もが意図しさえすれば、真でないものも書くー流布される時代だから、書く行為が権力や誤れば暴力になることをもう少し自覚しなければならないだろう。