We are not allowed to spend
And we are told that this is the end.

忙しいということはそれほど苦にならないのですが(幼少のときから半端なプロテスタント教育を受けた人なら、むしろ働いていない、あるいは社会の役にたっていないということのほうが苦痛である。召命がルターからはビリーフ(職業)に直結しているからである。こうしたことが、法の平等のもとに成り立っていない、奇妙に近代化した社会では二重の悩みになるのでは、と考えられるのだが)

困るのは、社会全般がある「前提」にのっとっていることで、
たとえば「標準世帯」というものや、「新卒採用」などもその類の固定観念である。
さらには、すべての人は同じく「暇をもてあましているだろう」と思う全体的なムードである・・・
個人的な事情などはほとんど考慮されない。
自社経営だと、一般的な暦や週休2日ということも関係がない・・・

たまに「いつ電話してもいない」といわれることがあるのですが、
それは「仕事は9時ー17時である」⇒「17時か18時には帰宅していてあたりまえ」だとか、母親は「午前中は家にいるものだろう、そして暇なのだろう」という前提から何も考慮せずに結論ずけるからであろう。
果たして、9時-17時が勤務時間であるという想定された「日常」は実際にはどのくらいの人が当てはまるのだろうか?土曜日仕事の人もいれば、シフトで動いている人もいるだろうし、正月やお盆といったものもとくに関係がない、という場合もあるだろう。

私の家では夕食を家族そろって食べるということは月に1-2度しかない。その代わり、ほぼ朝、昼は夫と一緒である。毎日三食+夜食もつくらねばならないことも多い!日常なので、それは困難ではないが・・・

だが私がやらなければならない仕事あるいは勉強は、家族がいる間はできない。よって明けがたに起きるとか、日曜に図書館にいくとかするしかないのだが・・・ 日常生活自体があまり見当たらない、・・・

たまに、夏休みなどに入り学校がなくなって、毎日お昼をつくらねばならない、と文句をいっている人をみると・・・または夕食のメニューで悩むとか面倒といっている人をみると、そんなことで悩むという感覚がわからないのだ。自分でやれることをやれることを幸福と思わず、何をしても不満な人は次から次へと不満を他人のせいにするだろう。

先日、参議院議事録の資料をみたのだけれども、これがまた未熟な三段論法のようなもので、やはり日本の社会や一般的な感覚というのはこうしたものなのだなと思った次第。なぜ前提を問わないのだろうか・・・。
実際にはこの時期から年度末には24時ちかくまで仕事になることもあるし、土曜は休みにはならない。まぁこうしたことをいちいち言うこともないと思うので(何せ私の両親すら、自分たちと同じように余暇があると思いこんでいる。何でも自分が基準なので、もはや説明する気力もない・・・感情的に受取るだけなので・・・)・・・

何がいいたいかというと、3連休というものはほとんどないし、2日休みということもあまりない。

なかなか思うように必須のこともできていないという焦りがある、が、こうしたときほど落ち着いて取り組まなければならないのだろうと思う。


家が前提になっており、個人はその部品である。
会社が前提になっており、個人はそのシステムの一部であり人称的なものよりも、システム全体に、分業されたものを担う。
個人の存在が、それ自体としてみなされるのは、あと300年くらいかかりそうであるし、間違った個人主義はそれには一切近づかないようにも思える、のだが。

A Design for Life.