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写真はイタリアのクラシックローズ、ヴァリエガータ・ディ・ボローニャ。
昨年春に撮影したもの。
このばらが咲いてくれると嬉しい(リジョイス、あるいは歓びとでもいいますか)。
一季咲きのばらは、一年に一度の生命。それも人の手で必須で必要なものを与えられたかによって左右するゆえに。
でもあまり今年は手入れができてません・・・夏が暑すぎるためか、夏が忙しいと(今年はフランス語とその試験および公的機関紙に掲載するための文章を校正など重なっていました...)を手入れがどうしてもできず
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ここのところ文章作成中に、「正しさ」とは何か、ということに煮詰まったときに、マリインスキーの「海賊」(アルティナイ.M)と「ライモンダ」(セメニャーカ)を観ることがあります。本来そうであるべきもの、という意味が、中心(軸・点)の一点から円周上に動きとしてあらわれる、かたちとしての美と、音楽にある美が調和したとき、それは想起を助ける美としてあらわれるように感じます。

私は「われ思うゆえに(ergo)われあり」という立場は無条件に立てない..
je pense, donc je suis.
デカルトの最初の足跡は今なお、問われている。

(社会科学の立場では主観を排除できない、しかし自然科学でも観察者と実験者はおのおの主観の中から対象をみている、という限定をともなう。このことは村上陽一郎氏も言っており、私は数年前に高校生向けの講演でこの主題について聞いた)

ところでこのデカルトの立場はすでにヴィーコから批判されていた。
もしそのことを言うならば、「私は思う、ゆえに私は生きている」ということになろう。しかし人間はすでに有限な存在である。(肉体、感覚器官、および、死の必然性の中にいる。)

存在esse(有)はこういう仕方で述語できまい。

花や芸術表現としてのバレエを通してみる「美」は類似するものがある。
それは呼び醒ましとしての美といえるのではないか。

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2月になりレッスンを本格的に再開できそうです。
といっても試験期間中も休会にはしませんでした。勉強はある程度は必須なものですし、しかしバレエは本質的なことを含むため、必須なことのために、1年とか半年であるとか休会して一切レッスンしないということはよくないのでは?と思えたためです。
無理しないように、オーバーワークにならないようにとのお気遣いを先生から頂きました。1/27は辰巳先生のレッスンでした。第一アラベスクの正しいありかたについて説明して実践してもらったと聞いています。この日は朝5時に起きて午前の試験をうけてきましたが(娘)夜7時からのレッスンに参加。楽しかったといってました。
3日はリハーサル(ライモンダ)に参加しました。藤沼先生からねぎらいの言葉を頂きました。また小林先生からも平日夕方は眠りの「幻影の場」のリハーサルをしている旨を教えて頂き。とにかくレッスンを減らしていたので、再開できてよかったです。
試験後は12月はじめにあったレッスン参観日のビデオをみて、娘は小林先生と藤沼先生の説明をみては、自分のできていない点を考察していました。「パンシェがまだ全然できていない、自分もちゃんと練習しよう」などなど。先生方の指導を受けられるのは幸せなことなのですから、自覚的に、自省し、そこから学んでもらいたいと思います。人は自らこう在りたい、と思うことが契機としてもらいたいです。また同じスタジオでレッスンしていている先輩からメモやペンをお祝いに貰ってよろこんでいました。

翌日のクラスレッスンでは、カブリオールなどを練習したようです。
土曜日のレッスンでは藤沼先生がライモンダのヴァリエーションを踊られたと聞きました。ともかくとして、私がルネサンス期(この時代区分もまたヴァザーリが中世から区分するために行ったものなのだが。ゆえにルネ(再)サンス(生きる)はむしろフランスードイツにおいて考察されてきたアイデンティティの起源であり、厳密な意味でのルネサンス期はやや複雑なのだ(と思っている)

・・・ところが思っていることが果たして本当かといえばそうでもないことが多いものだ。

(時には自分の知っているものを、または時には自分のしらないものを、自分の知っているものであると思うことによって、「誤ること」という可能性がある(ということを自覚すべきである)『テアイトス』(191E)

こうしたことを考えていられる時間があるときはよい、

むしろそれが本来的だと感じる。

・・・「正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にはほんとうの意味で書き込まれる言葉、
ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生まれた場合、こういう言葉をこそ、自分の生み出した正嫡の子とよぶべきであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人なのだ。」 (『パイドロス』278A)

何度も読むと本来の意味でようやく「読めてくる」ということの繰り返しでもります。本当に人間の目はただ視覚というだけではなにも見えていないことが多い、認識しようとしなければ、それには近づくことも発見することもないものだ(と自覚する)

私自身も文章を書いてはいますが、自問は尽きない。

(だから更新できないときはそれなりに困難でもあるのですが、書いているときは大丈夫かといえばそうでもないという....
更新していないときは、ご想像にお任せするしかない!
なすべきことを成すしかない。・・・
すぐにお返事できないことも多く、それは個人的に日程がどう変化するのか読めないということもあり・・・周囲の状況によって、自分で決められる時間が制限される状態なのです。)

追記:
「観に行きますか?」と数名の方から聞かれ+私自身も観にいきたかった「ダンス・インザ・ミラー」(東京文化会館)ですが唯一観にいけるかもしれなかった6日も行くことができず。しかし6日に行ったというRさんから感想を聞かせてもらいました。ジルの振付と高橋竜太さんの踊りのよさがあっていて、無理してでも観に行ってよかった、と聞きました。やはり観たかったです...