集中して取り組むべきこと、また取り組みたい、解明したいと思うテーマと平行してドイツ語圏関連の再復習をしており。
類似したテーマの部分もあるはずなのに、「自然」、あるいは「人間性(人間的)」といったものに関してあまりにも両者の違いは大きく(みえる)。
これは原点である古典期ギリシアの悲劇、アイスキュロス、ソフォクレスら、およびレッシングのアリストテレス受容が整理できなければ、理解・整理したことにはならない、あまつさえ暗誦はできない、と思い、幾度となく時間を捻出しては図書館の地下書庫へ。(しかしテキスト・原文はあまりない・・・・)

・・・イタリア中世−近世-近代における解釈と正反対の定義がそこにあるのが確認できた(ように思う)。
はたして、やるべきことを成せるのか、・・・ 自分のことで他に負担をかけたくない、罪悪感・・・ということもあり、・・・何が時宜を得た行動か、
とにかく後悔のないようにしたいものです。

ところで以前「メディア伝説」、つまりパリ・オペラ座作品 アンジュラン・プレルジョカージュの「メディアの夢」についても記事を書いたが、原典であるギリシア悲劇は、グリルパルツァーのビーダーマイヤー的な感覚とはまったく別の側面と意味がある。
これは単なる復讐劇ではない。メディアがなぜ子殺しをするのか。それは彼女が母から大地の神つまり生命を与え、そして奪うものとして移行するからであり、それは「マンタノー」つまり「私にだってどんなにひどいことをしようとしているかは解っている」 この自覚している、知っているという一言が決定的に、グリルパルツァーの「夢想」に帰してしまう自己完結、あくまで日常的、遇有的事件の世界とは異なっている。
・・・ 実際のところ、こうした問題は現代でも深層として残っているのではないか、と思うこともある。
(当然だが、「わかっていされすれば」からこの行為が「正当」であるというつもりはありません。)
オペラ座作品に関して戻れば、マリ・アニエス・ジローのメディアは、母から地母神的な性質を演じている、それにたいして、エミリー・コゼットのメディアは、あくまで「事件性」の面にとどまっている。


自然や人間性というものに関して。ルソーは「もはや自然に帰れない。また自然のままにしておくと人間の場合さらにひどくなるといったのだ。しかしこれを「自然に帰れ」と「自分たちが「快いように、気分が和らぐように、努力せずともいいのだ」、と「おのおの思いたいように」受容したのがロマン主義のドイツと日本なのではないか。ようするにアミニズム的な感情のままなのではないか(年末に古代彫刻がまるで聖遺物化していると書いたが)「自然に生きたい」とか「自由に生きたい」という人の言い分は、単なる利己主義と強欲の追求でしかないことが多い。ルソーの場合はパスカルやスピノザとは事情が異なる。彼は懸賞論文に応募しているのであって、どういう立場からでも評価が得られるような書き方をした面があるのでは、という疑念が残る点がある。以前にも書いたが自分の仕事に専念できないから子どもを5人とも孤児院送りにしている。語の受容としては、スピノザの実体も、存在、本質という言葉も、どこか翻訳語はずれている。何かしら物質的なものを連想させる語が使われているから、なのだが。実体の「体」、存在の「在」、本質の「質」など、訳語が適切でないように思われる...)


ドイツ語圏に関しては、(そうはいっても)取り組んでいた点もある。
特に戦後歴史問題に関しては、石田勇治著作や、戦後グループの作品を解釈していたこともあるし、舞台作品でもドレスデン、シュツットガルド、ベルリンなども何度も直接みて、それなりに考えてきた。
こうした記事としてだけではなく、専門分野として文章を作成し、研究している方にも見てもらっていた。


私はあまり要領のよいタイプではありません。
また機械的に暗記するといったことも苦手で、そのテクストを読み、何があらわされているのか、「筋」「概略」ではなく、そこに何がこめられているのか、それを理解しなければ、脳内に刻み込まれないという性質があり・・・・
語学もその語や表現(文法なもの)の差異や、言語ごとに音声化した差異、ニュアンス(翻訳語と原語が異なっている場合も多いように感じるからか)が理解できないと、どこか覚えられない、・・・・
表面的に扱えない。


いかに切り替え、いかに集中するか・・・
こうした時間を他と関わりながら、いかに捻出するか、集中するかが問題です。
義務や時間的制約をおろそかにするのもできない。
やれることをやれるだけ、そのときに行うしかないと感じます。