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写真は響の詩。
焼き野菜のかぶ、ごぼう、れんこん、ごぼうのサラダなど。

料理について および潜勢力について

私にとっての「美味しい料理」とは・・・素材が生かされている、味は素材のもつ力を引き立てるものである、見た目の彩りなど美的なものが含まれている、それぞれのよさを生かしながら統一感が感じられる、食べたときにくどくない、噛んでいるうちに味がわかると、といった具合。


勉強に煮詰まると、実際的になにか「かたち」「実質」のあるものを確かめないと不安になり、今でもよく料理をします。
「何か」をしていないと逆に落ち着かない。
(ばらを育てるのも、必須なことを必要なことをすれば植物はほぼ確実にその通り「有」を現してくれますが、人間はそうはいかない...)


よく来客した方などに、料理はどこで習ったのですかと聞かれるのですが、習ったことはなく。
私は中学生ぐらいから弟の食事を作らなければならず。
必須の作業を含んでほぼ毎日作っていましたね...

(両親にはほとんど何も頼れませんでしたし、頼るなということを小学生くらいのときから言われていたのであり。家の中にいる大人は口は出すが手は出さないという人たちの集まりであって、結果論だけを口に出すのです。自分の行動はすべて「しかたがない」といい、顧みることがない。現在もそれはかわらない。やらない理由を正当化するだけなのです。どういう因果か内部の癒着かしりませんが、ほぼ職業が公務員ということ、制度を濫用していることなども私には理解に苦しむ。私が母親というアイデンティティを何の疑いももたずに持っている人たちに対して不信を抱いているのは、自分の責任を自覚せず、それを責任転嫁することをよしとするからです。私は過ちは「繰り返したくない。)

今もどこかで美味しいものを食べたら、食べながら材料と調味を分析し、再現できそうなものならばつくってみるーレパートリーに加えるということの繰り返しです。もっとも最近は美味しいものを食べられる場所も減りましたが。

どこかで食べた料理(各国料理など)を再現することが多いです。
あとでプロ用の教本をみて、確認したり。

素材を見て、その可能性を引きだそうとする手続きをしている。
最近思うのは、プラトン思想に惹かれるのは自分が実はアリストテレス的だからではないか、と思うことが...

実際に何かを経験したことがきっかけになることが多いからでもありますが、自分はカテゴリー化できないと思うのに、他に関してはどこかカテゴライズしようとしている心理があるとおもい。

・・・自己認識というのは、そう努めていても難しいのでしょう...

晩年のトマス・アクィナスも言っている。
「私が書いたものを私に読み返すようなことをはしないでほしい。不確実なことばかり言ったような気がするし、すべてを火にくべてしまいたくなるだろうから」

逆にこういう心境にならない人は、初めから終わりまで何も変わらなく、何も問うこともせずに主張だけするのでは、と思うことが。

1月は日曜も図書館が開館しているので9日は午後から閉館まで図書館にいました。
帰宅後、チーズ・フォンデュを作りました。ほぼ2年ぶりくらいに。
朝食用の野菜スープは毎日夜か夜中に作ります。
体調によっては家族のタイミングにあわせられないので、煮込み料理が多くなります。野菜と豆とツナのカレーを作りました。

・・・年があけたら隣市の医者にいこうと思っていたものの、まだ行けていません。自分のことはどうしても後まわしにならざるをえない。

それとて、自己責任といわれればそれまでなのですが...