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チューリップとスイトピーの花を頂きました。
(お花屋さんを経営されている方から)
チューリップは育てていないのでとても新鮮に感じます。
寒さのなか、ちらほらと咲いている四季咲きのばら、常緑樹の葉、ハーブの花などを摘んでいましたが、こうした花をみると、もう冬至をすぎて、新たな再生的季節に入っているのだなと感じました。

しばらくは忙しない状態が続きます。
といいますか、試練です。(あまり大げさにはいいたくないものですが)

昨年からほとんど気分転換に自分の時間を費やすということが皆無になっており、うまくバランスをとらなければ、と感じます。
血圧が52程度しかない状態が続いており...
(つまり、うまくバランスをとれていないのですが)

しかしそれも結局は自分の問題なのです。
「しかたがない」とも口に出したくはないですし、
つきつめれば、何も言い訳はできない。
また気管を悪くし、ほぼ声がでなくなっています。


・・・大抵の場合、気分がよいことを幸福だと思う傾向があるが、HAPPYNESSは、心情的なものを含まない。
あれもしたい、これもしたい、あれもコレもほしい、というのは、次から次へ、限度ない方向に向いているもの(欲)であって、実のところ幸福とは無関係である。
(消費社会ではそれ自体忘れられているかもしれないのだが。)

運気や運勢なども同様。それよりも、注意深く観察すること、人の話を聞くこと、理解する際に自分の立場都合のよいようにに引き寄せないこと。

HAPPYNESSは「そうしていれば、もうそれでよい」という最上級であり、こうしたものは何か他人とか物質によって満たされるものではない。
そして、物質的、身体的なものからも遠ざかっている。
私自身はそのような状況なのですが、これとても自分の問題なのでしょう。

「魂の不安」これは生死の自覚とともに恐らく何らかの役割を認識したときにおこるものではないのか。実存ということだけだったら、問題はそれほど面倒ではない。(昨年ベストセラーだったらしい「悩む力」(大学の入試問題にも出ているようだ)では、他者と自己の問題が実存レベルで書かれており、正直なところそれは「悩む」という問題でもないように思える。著者は、今頑張るのは「将来バイク(しかもハーレー)で旅をするためであり、そのためには60歳、ようするに退官までにやらねばならないことをしておく、と言っており、それは結局は自己中心的な範疇の話ではないかと思ったものだ。これは単なる快楽主義(実際的な意味での)の延長上の問題なのではないか。
悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
著者:姜 尚中








さらにこの本の記述だと、肥大したエゴが「うつ状態」になるといったような説明をしているのだが、それはあまり正鵠を得ていないように思われる。)

死の観念にぶつかると日常のあらゆることが再評価の対象になる、というよりもならざるをえない。

マルシリオ・フィチーノおよび魂の不安について、というコラムで、ルチャーはこう述べている。

「むしろ、うつ状態こそが魂の不安の一形態ではないかどうかを自問してみよう。私はそうだと思うし、その理由をのべてみたい。
人の魂は船外モーターに似ている。うまく機能するためには、一定数の回転をしなければならず、それを超えてはいけない。アウトボードエンジンのスクリューは、水中で3000回転する。より多く回転するほど、船は速く進む。だが水上で回転させ、3000回を超えるとすぐに焼けてしまう。なぜか? スクリューは水の抵抗に打ち勝つだけに作られているからだ。この抵抗がないと、スクリューは故障するのである。
さて、私たちの魂は生の困難さを克服するためにできているのだ。この困難さがなくなる日には、私たちの魂も回転を超えてしまうことに、つまりうつ状態に入ってしまうのである。反対の現象はストレスと呼ばれる。」

自分自身と不調和でいることか、または周囲とあわせることか、この両者の「正」が正反対を向いている場合、おそらくどちらを選択しても不調和が起きる。こうした価値観は、日常的なことばづかいにも表れているように思う。「正直」という言葉が揶揄されるときのような。当たり前という価値のずれが、因習としてしかたがない、とされている限りそれは続くように思われる。(因習と伝統は同じではない。)

・・・面倒なのは、同調的でないことをただちに「敵対心・悪意」と受取られること、つまり、何を言っているのかを聞き、それを理解したあとで、反論するというような手続きを行わない人たちが大多数である場合。
感情から感情へ、または雰囲気から雰囲気へ(雰囲気とは物質主義が生み出すモードである)単にうつろうことが「当然」であるとする場合。
(ロマン主義の「感動」は「嘆息」に終始し、その強調だけに留まり、世の中のあり方にも自己のあり方にも洞察力を向けない・・・この時点に留まっているようにみえる。歴史的にみると、人間の精神状態というのは、突然進展したり、停滞したりするが、一方的受動状態が日常になると、停滞どころか逆行しはじめるように思われる。ブルデューがメディア批判(とりわけTVのそれ)を問題にするのも、ルチャーが無知の助長と無知の懐柔をTVが可能にしてしまうといっているのも同じ理由によると思われる。さらに携帯電話とWEBのTV化・公告化は、あたかも人が「情報や知識をもっている、十分であって不足はない」という仮の感覚を助長させるようにみえる。)

物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで物語 近代哲学史―クサヌスからガリレイまで
著者:ルチャーノ デ・クレシェンツォ
而立書房(2004-02)






(ルチャーノのフィチーノやピコの思想内容の要約はそれほどは適切ではないのだが。しかし、単にリーダーズ・ダイジェストのように専門用語を並べただけの解説書より間違いは少ないように思われる。というよりも、そぎ落とされてしまっている部分(余談)や人物について、背景についても含めてイタリア旧制高校での哲学授業内容が垣間見えて私にとっては興味深い。思想史が現に活用できるものだし、そうした考えのさまざまな形は、自分自身のあり方や選択といったものを考える際に、現在とて重要な問題だということを示してくれる内容のものも多い。)

知は本来、改善する力をもつはずである。だが、環境や状況によっては改善するということ自体を求めないこともある。(私には理解できなのだが)その立場を享受できることの自覚がなければ、なにをすべきかということも見えないものなのだろうか。自己と周囲が問題がなければ、何も問題はない、とするような... 困るのは自己と周囲が少しでも脅かされていると感じると途端に攻撃的になるか悲嘆に暮れ始めることだ... そして日常は自己忘却できるほどに「満ち足りている」と蓋然的になることではないだろうか。だから何か問題がおきたときに、権限があるにもかかわらず、「想定できなかった」と言うのだろう。

そして「しかたがない」「しょうがない」という言葉だけで、「何も問わないことをよしとする」立場が優勢な場合(あるいは”環境”)

役割の自覚というのは、いかに生きるか(在るべきか)と切り離せないように思う。それは、意志や目的の実現というものが、身体があるうちにしかできないものだからではないか。