曖昧な強調は、不確実な集団的同調を助長させるように思われる。

「世間にあるのは、クエスチョンマークとエクスクラメーションマーク、懐疑の闘士と絶対的確実性の闘士だけなのです。クエスチョンマークにぶつかってみても、怖がるには及びません。たしかに、それは勇敢な男、民主主義者、その者と話あってみて意見を異にする男には違いありません。反対に、エクスクラメーションマークは危険です。それは固い信念の男、早晩”取り返しのつかない決心”をする連中なのです。ところで、今申し上げることをしかとご記憶下さいー信念は一つの暴力なのです。いかなる種類の(宗教的、政治的、ないしスポーツ選手のものであれ)信念も。あらゆる戦いの背後には常に、最初の銃撃をした、固い信念の一人の男がいるものです。それが殺すときには、いつも愛の名の下にそうするのです。私は父親から教えられました、懐疑は寛容と好奇心の父であると。若者は好奇心はあるが、寛容ではあり得ない、ところが老人は寛容だが、もはや好奇心をもちあわせていない。ところが偉人には好奇心もあれば、寛容でもありうるのです。」

ナポリの音楽教師コレーリャ氏の言葉から。

今日では、むしろエクスクラメーション・マークの氾濫ともいえる状況がみえるように私には思われる。誇大広告、「かならず儲かる〜の方法」 「必ず役に立つ〜の方法」「絶対成功する(商品・技術)」。報道もほぼエクスクラメーションの連続であって、CMもほとんどがそうだから、常に「絶対」「確実」「みながそう言う」ということにつられて、どこか落ち着きがない。

表現も適切ではないことが多い。「美しすぎる云々」「旨すぎる」「極上の」「激安」・・・などなど。すぐさま、疑問が生まれる。
何を言っているのか?
具体性のなさと限度のなさがなにを示しているのか。
私見では、何も考えずに手をのばすなかれ、と思うのだが。すべてを疑ってかかれとはいわないが、一時停止するくらいの用心は必要なのでは。概ね、得をしたい、他人よりもいい目にあいたい、などの感情が利用される。何が適正なのか、Realy? Why? How? What?と問うことも必要のように私には思われる。
電車内の広告、新聞広告、ネットにおける広告、報道の見出し、メディア世界ではすべてがまず人目を引くことに向けられる。しかし本当に重要なことは極度から極度へととつぜん移行しないことではないか。

自己認識は、力を持っているときには自分が思っているときほど正しく作用しない、ということも、人間の能力が絶対なものではないといえるだろう。(ただしこれはペシミステイックになることや諦観をすすめているわけではない)

「ロベスピエールだって、学生だったときには、死刑に反対の学位論文を書いたのです。そして、その後はこれらの人びとをみな虐殺してしまった・・・」

吉見俊也氏によれば、アイデンティティは、自らが「快い・心地よい・納得する」ような理由と立場を引き寄せている。そしてその背後には、他人と自分を比べて確証のない優越感をもつ意識が働いている。集団から集団へこうしたアイデンティティの肥大は、集団ヒステリーも生じさせる。

ルチャーはこう応えている。
「でも、何かを企てようとしたら、ちょっぴり信念が必要です。信念がなかったら、私たちはアメリカもペニシリンも発見してはいなかったでしょうよ。」
「ええ、でも、これとても、懐疑から生まれる一つの信念であるに違いありあません。懐疑こそは、過ちを活用する術を心得ているのです。」

気分の問題になってしまえば、人は過ちをできるだけみないようにする、これが新たな過ちを生じさせる。
短くいうならば、本当にそうなのか、適切とは何かを問わなければ現状ですら維持できない。盲目的に絶対的確信、愛のもとに叫ばれる愛国などもその類である。本当にそういう気持ちがあれば、考え、日常の中で行動することで現されるだろう。自分の役割を果たせば、自足でき、かつ他者や社会といったもののなかでもそれほどの害にはならないが、自分が正しいと思い込み、自分の役割を果たさず、他のことにばかり気がいっていては自らも保つことはできず、責任や義務を放棄すれば他の人がその倍の行動をしなければならない。しかしそうしたことも、欠乏の認識がなければ、何も問題がないと「信じて疑わない」状態のままなのだろうか...

物語ギリシャ哲学史〈2〉ソクラテスからプロティノスまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
而立書房(2002-10)

数で示されれば、では確実かといえばそうでもない。
%による説明はとくにそのように感じる。
たとえば、定価の9割引、といった表示がいかほどの正当性を現すのか。
要するに、すぐに飛びつくことなかれ、ということだし、不正をしても得をしたいと思わないことが重要なのでは...

年末から年始のあいだ、やや無理したせいか寝込んでしまいました。

大抵、三が日中に、毎年熱がでたり、何も食べられなくなったりということが多いです。

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