ベジャールMと表現主義。表現主義では中心人物は作者自身と同質である。日常的環境を戦って高い次元で自分の生を充実させようとする。主人公は社会の現実と対置され、この場合、個人以外はすべてが社会となる、家庭、権力、戦争など。原動力は超自然的なものとなる。
「M」の場合、少年三島はベジャールが見出したもう一人の自我でもあり、超自然的力は、聖セバスティアヌスである。死(シ)は狂言回しであって、この存在によって、観客はドラマと対置され、出来事を同化せずに眺める視点を獲得する。逆にいえば、この存在は、ベジャール作品においてもっとも重要な役となる。こうしたベジャールにとっての傍観者として、ローゲ(ニーベルングの指輪)、伴内(カブキ)、旅人(80分間世界一周)などがある。近親者の死によって幼少の自己に分離をつくるもの、生の渇望と共鳴者への同化願望による死)が表れる。

聖セバスティアヌスは三島とベジャールを結びつけるアイコンとなる。時間、場所をこえて、同質、類似するものとしてこの聖人が共有されるイマージュとなる。
個人の確立の過程で三島がとった選択は、自我への反発であり、自己実現とはならなかった。だからベジャールはそのことを見抜き、三島の精神が孤立化しないようすべての主人公たちと聖人の存在に結びつける。
ベジャールの作品は激しさをもちながら、最終的には愛に満ちているのもそのためではないだろうか。それが赤いリボンで象徴されていたのではないだろうか。水脈、血脈としてのエッセンスの継承なのではないだろうか。

悲劇を憎悪や応報で表現するのは簡単なことだし、観客が一つのドラマに自分を重ねて感動する(自己陶酔)に誘うのも簡単なことだ。しかしそれは忘却であってなにも変わらない。ベジャールの舞台が小説よりも詩の構造をとっているのもそのためであり、観ているものが、自分のあり方を問うことを呼び寄せるのである。
こうした言葉とイメージによる呼び寄せを創造するのは容易ではない。

一方でこの作品ほど舞台装置によって支えられているものもない。
ミラーは、観客にとって上方、違う次元の視点を提供する。舞台上に、異なる視点をもつということは、作っている側と見ている側は、舞台を正面からみる以外に、より次元・ディメンションのことなる見方があることを意味する。またセバスティアヌヌ(聖セバスティアン)が海へ向かう場面、「豊穣の海」と合わせた場面は、完全に非日常の空間を作り出していた。

ベジャールは、ノイマイヤーなどのドラマティック・バレエとは異質のコンテンポラリーである。なぜならば、「劇的演劇」とは対立する舞台のありかたをもとめるからである。映像化しないという理由もそのためだと私は思っている。観客はそれを目撃しなければならないーそうでなければ「本当の」意味で作品をみることにはならないからである。
「叙事的演劇」は舞台は継起を物語るものであり、観客は傍観者になるが観客自身のエネルギーはよびさまされる。
感動は洞察力になり、人間は探求の対象となり、人間は変わるもの、として描かれる。


そしてベジャールの作品が単純に悲劇として扱えないよさを持っているのも、必ず再生としての力、憎悪による分離の力ではなく結合するものとして、地中海的な生成力をそこにもっているからである。