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写真はスヴニール・ドゥ・ラ・マルメゾン。2株を鉢で育てています。私自身はマルメゾンにいったことはないのですが、このばらはクラシックローズの特徴をよく持っています。

ベジャールの「M」について記事を書くかもしれませんが、いろいろとやらねばならないことも多いため、しばし休載します、というとまた逆に内心プレッシャーになるのかもしれませんけれども。

記事に関しては、輸入住宅とオールドローズ関連以外では、今年はマニックスに関すること、村上春樹と村上龍に関すること、あとはイタリア関係、パリ・オペラ座関係に関する記事をみていただいたようです。村上春樹に関して付言するならば、丁度ノーベル賞云々とマスコミが騒いでいたころに、実は地元のある住宅街で見かけました。私はあまり私的な時間に割り込むのは好きではないし避けるべきだとおもっているので話しかけたりはしませんでしたが、あとである雑誌記事で「よく読者のかたからお会いできて光栄ですといわれるが、本人は毎日自分を鏡でみてはうんざりしているのに、なぜ光栄なのかわからない心境になる」と書いていたので、やはり声をかけなくて正解でしたね!と思ったものです。
(勝手ながら)



気管支の傷みは多少回復してきました、ただやはり乾燥(特に暖房の・・・)すると悪化します。
あっというまに12月になり、毎年のことですが個人的に7月から秋の終わり、年末・・・まで正直全く切れ目がありません!年の移り変わりというもものもほとんどなく、正直なところ、個人的感慨としては98年または2000年あたりから円環的な時間の流れに入っており、もっというならば93年-96年あたりの時間のまま「停止」または「保留」状態になっているのです。いまだに独身だとみられるのもそのせいかもしれません・・・自分の中で解消できない問題があるせいかもしれません。
私はものごとやできごとに対してあまり不安を感じたり動揺したりするほうではないのですが、それ以前のあり方(自他)については常に問題を感じているところがあり・・・。

(ただし「家」という」ものの内の一部と単にみなされ、個としての性質もすべて無関係にされる場合(日常において大抵はそういう場合のほうが多い)は別ですが・・・。個人の人権というものが近代化したシステムの中では基本的なことがらに対して、実際のところは「何も問わず、なにも言うなかれ、そうでなければ、居場所はない」という二者択一的な前提が「家」というものにはあるのはないか。そうではない、といえる人がいるならば、その場合はその家の家長や世帯主含め構成するひとびとのうちより「上」とみなされる人が開明的な場合だからでしょう。)

また行動において何が最善なのか?ということは常に迷いますが・・・ 時間的制約もあるからかもしれません。

ノーベル賞に関しては、なぜ個人の受賞が国民全体や民族的栄誉のようにはやし立てるのか(すくなくともメディアでは)疑問ですね・・・社会学で私にブルデューを読んだらよいのでは?とすすめてくださった岡原先生いわく、そうした賞をなぜ自分たちで創設しようという動きにはならないのか、ということに私も同感なのです。
個人を尊重するという原則が失われたり忘却されること・・・世の中に対する基本的かつ原則的な問題だと私は思っている。なぜか、個人の欲望レベルで不満が募ると、突然全体レベルの目的にすべての問題意識が集中してしまうこと、世論どころか民衆裁判的感情論が席巻するようなことがままあるからである。しかも義務教育レベルの社会の授業ではそういった言説にのっとって「時事問題」として扱われる感があるからである。
事実について考える際に、もともとの枠組みに照らして考えないと、誤ることはままあり、大声で唱えられていることがらが、正しいとはかならずしもいえない、からである。

もしもメディアが役割を果たすならば、むしろ、受賞する前に、さまざまな研究や活動について見逃されている価値があると紹介すればよいのに、と感じる。