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形式上の平等が表れると実際上の不平等がかえって鮮明な形となって表れてくるというハーバマスの言葉を思い出す...

義務だから成すべし、という行動を原則にしている身にとって、周囲が「やりたくないからやらない」「気分次第」「感情まかせな言動をとったり暴言を行動としたり、圧力、暴力的な態度に出て同調することを促す」という類のことが私には理解できない。
身辺に他人の自己犠牲を「みる・確かめる」ことによって深層心理上のアイデンティティを確保しようとする人がいる場合、また自分の過失によって他の人が実際的にも心理的にも苦痛を長年味わっているのにもかかわらず、自分はまったく間違っていないという人がいる場合、なぜならば何も失っていないから、と独我的な人がいる場合、その人が気がつくのは、人もものも場もすべてを失ったあとにしか気がつかないのだろうか....と思うことがある。むしろそれが、その背後にいる人の無理によって支えられている場合が実際のところ多大なのではないか、と思うことがある。

「他」におかれた人はどう最低限の場所をみつければよいのか。
消失、しか思い浮かばない。
拒否する力を持たないくらいに、そうした人たちは自分の同情のために他を身体的にも精神的にも従属させ、生命を断ち切る権利も自分でもっておかねば満足しない、という人は、自分のために他の人の犠牲を要請するし、それは自分いがいのすべての人に向けられる。
逃れようがない。

・・・私には全く理解できなののだが、「他人の悲劇・悲惨さ」をみることによって自分自身の心理的充足を得る(アイデンティティを確かめる)ということを好むようであり、そういう人は「苦悩すること、できるだけ苦悩する自分」が充実の条件であるようなのだ。だから周囲の人はその人が「満足に苦悩するために」病気になったり、事故にあったり、場合によっては死を「見せて」やることが要請される・・・・ そして「痛み」自体はその人自身が味あわなければ何一つ理解しない。実際、観念論者は、自分自身にのみ、経験論を適応する(ように思われる)。
だから周囲は無限の要求に対して、極限を超えた我慢をしなければならない。そうでなければ、暴言か実際の暴力に訴えてくるからだ。

こういう例え話が何のことかわからない場合は気になさならないでもらいたい。しかし私見ではこうした矛盾はいたるところにあり、しかもそれは抑圧によって露見しないだけなのだ。
権限あるものが、その権限を自覚し、その役割を十分果たしているかどうか。権限というものは責務と同時に発生するのだが、一方だけ振りかざされる場合が多いのではないか。

ヘーゲルによると、「人間は自己の幸せだけを欲しているのでなく、認知されることを欲している。そういう人間が自分自身について描く敬意は隣人から受ける注目に直接比例している。それゆえ、他の人びとは、彼が存在することを証言しなければならない。もしそうでなければ、彼はそのことが起きるように一切のことをやるのだ。」

・・・個人という前提すら確保できておらず、私的、公的な領域の線引きが、「世帯」という基準であることは、国勢調査などでも明らかである。あくまでカテゴリーと数字上の基準によっていくつかのパターンに分けられている面は否めない。日本では「世帯主」という言葉が示しているように、ある面では「世帯主」の主観が絶対化されていることが多く、しかも外に向かっては善人、内では時として暴君的のようにふるまう。
もし周囲にヘーゲルやニーチェの誤った信奉者がおり、自分が絶対的に正しいという人がいたとしたら。しかも他の人はそれに少しでも意見をつけくわえようとした場合に、相手が全く理性を失って感情の塊になっていたら? 
「現に」そうであるということは...例に事欠かない。



拍手のお返事;
2010.12.02 09:31 あきこMANIC STREET PREACHERS :POSTCARD FROM A YOUNG MAN TOUR 2010 (STUDIO COAST)

>NYから読ませていただきました。去年のマニックスのNYライブもよかったですよ!

あきこさん、記事を読んでいただきありがとうございます。日本では単独公演は本当に久しぶりでした。NYではどうだったのでしょうか?やはりMANICSは特別です。