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マリアージュ・フレールのランチ・ティ、オードヴル。
りんご、金柑、くるみ、セロリ、チコリなどを使ったサラダ。

自宅ではこの季節は柿とかぶをつかったサラダなども作ったりもしますが、この取り合わせも参考になります。酸味とフルーツ、香ばしさなどのバランスが丁度よい。
とはいえ、最近は、料理も必要最低限のことで精一杯な部分があります・・・


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エクスポジション・コロニアルはほのかに甘みある紅茶。
ルージュ・プロヴァンスはラベンダーなどが入ったさわやかなルイボスティ。カフェインフリーなので、テ・ルージュ(ルイボス)はいくつかそろえていますが、スラバヤ、ニル・ルージュ、ルージュ・ブルボンなどが美味しい。キンバリーやスラバヤは今はもうないようですね・・・ルージュ・ド・トンヌも美味しいのでおすすめです。最近は脚を運ぶ機会がすくないのですが、お茶の香りと立体的なフレーバーはやはり魅力です。みえないものに質あるいは有(それを条件づけるもの)は宿るのではないでしょうか。それゆえここのお茶の名称には象徴性が用いられている。

加藤信朗教授の『ギリシア哲学史』を読んでいますが、ヌース(知性)は視覚ではなく、嗅覚にどちらかといえば分類されるようなもので「かぎわける」要素が強いという説明があり、成程・・・と改めて考えさせられます。自然(physis)から始まる学は、物質を通してみえるものからは出発していない、と何となく思っていたのだが(逆に英語圏では物質を介する説明となっていることが多い)・・・たった2行の表記でもいままでの認識がクリアになる想いがする。ギリシア語、ラテン語と日本語、英語、ドイツ語の表記が併記されているのでそれぞれの言葉の差異を確認しながら読める・考えられる。・・・というか考えたい。

私の場合、その考えが「正しい」と思える「自己」が正直なところ、定まらない・・・いわゆるフィチーノがいうところの、「推論の進行とともに不安定になる」まさにそういう状態に陥る。しかし概して定まったらそこでもはや考えたり、気がついたりもしないのかもしれないのだが・・・ 同一のものが、ある立場からは肯定され、ある立場から否定(しかも絶対的に)されるとき、判断停止ではなく、「否」とされる場合がある。しかし、「そうともいえないのではないか」ということもままあるわけで、あることを合理的につきつめていくと・・・これ以上説明できないというものがどうしても表れるのだ、だから合理的ということは理解できるのだが、それが完全無欠であるという確信は、もてない、と感じることが多い・・・ 理をつきつめていくと、説明不可能なところが表れるのだ。

加藤先生のあとがきのことばは大変重要なことを言われているので引用しておきたい。

「いまや真実の哲学の理解がわが国において広い範囲の人びとにふたたび求められるべき時が来ている。また、それが可能となるまでに時が熟している。ギリシア哲学の理解が哲学の理解のために根本的であることは言うをまたない。。大学教育において哲学の教育が無用であるという間違った見解が世を覆っているかのように見える昨今、本書が人間としての真実の教養を願望するすべての人々の助けとなることを心から祈念するものである。」(あとがきより)


また重要なのは、哲学はもとは希賢学のことであって、知を求め愛する学問のことである。科学と宗教の間にあるのがフィロソフィアともいえる。不幸にも日本語では希哲学の希が省略されて流布しているので、哲学はもはやそのままでは何の学だからわからないと思われてしまうのもこのあたりが原因になっている。これは不幸なことだ。多くの誤解を生んでいる。一般書店にいくとことは一目瞭然で、自己啓発とかサイコセラピーとかニューサイエンス的な分類におかれていたりする。結果どのようなことがおきるかというと、セラピーのようなものが横行する。さらには自らの悩みを解決してくれるもののように思われているが、そうではなく、あえていうならば、有と非有、見せ掛けのものと本当のものを区別でき、それを言葉で説明し、読むことで理解が深まること、考え方の枠組み、視座をもつことの契機となるのではないだろうか。