最近、専門文献以外ではルチャーの本をよんでしまうのだが、アッシジのフランチェスコについて再度。 

ルチャーいわく「彼の生き方には宗教以上の何かがある」・・・ゆえにカトリックの信者ではない私だが、興味深いものがある。ルチャーはこの本(「物語中世哲学史」)で、フランチェスコの逸話でよく聞く「親でもない子でもない」といわれた当の父親の手記を掲載している。(P.106)ちなみに最初父親は、フランチェスコの命名をジョバンニ(要するに洗礼者ヨハネの名前/イタリアではポピュラーな名前でもある)としていたが、商業が成功したフランスにあやかってフランチェスコとしたそうである。後に「それが間違いだった!」と書いている・・・

彼は富裕な商人の息子だったが24歳から転機がおとづれる。
ともかくも彼にはイエスよりも多くの追随者が出たのであり、グレゴリウスはフランチェスコを聖人に没後2年にはしている、通常2年間はベアート(福者)であるのだが。このことに関してはグレゴリウスも迷ったらしい。
グレゴリウスは「だが、フランチェスコを聖人にするようにと私のところに来た人々の数がどれほど多かったか」と言ったとか。

フランチェスコは農民たちにこういったとか。

「あんたの土地を全部耕さないでおくれ。雑草にも少しのこしてあげなさい。そうすれば花たちも姿を現すだろうから。」


わたしもまったく同じ心境なのである。・・・・
人は果たして「食べる」とか「売る」とか、そういう意味のためだけで満足できるのか。(決してそうではない。)
これは弟子の一人ガスパーレ・ダ・ベトリニャーノ修道士が書き残したフランチェスコのことばだが、今日でも同様のことがいえるだろう。
すべての土地を開発しないで自然と他のために残してあげなさい、と。

わたしはいつも国立公園などにいくと思うのだが、自然(コスモス)も権力または財力があるものにしか貴重なものにしかみえないのだろうか?守ることができないのだろうか?と思うことがある。(イギリスは開発に対する熱も高かったが、同時に田園や自然を守ろうとしたのも資本家層であり、ナショナル・トラストも同様の背景を持つ。)

また逆にフランチェスコを聖人としたのは、富裕層をとりこむためだったのだろうか?ただ仮にそうだとしても、富裕層を取り込もうとする組織は古今東西いたるところにもあるし、現代でも似た事態はある。単なる浪費を豊かさだと思い込める人にとってはどうでもよいことなのかもしれないが。
人間の在り方を、家にもとめるのか、個人のあり方に求めるのか、それとも古代のように共同体に尽くすことが意味があるとみなされるのか?金銭や「成功」(何をもってそう言うのか?)のみを価値とするのか、それ以上あるいは根源的なものがあるのか、という問い・・・「生き方」「在り方」に対する問いが含まれている(と思われる)

物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで 物語 中世哲学史―アウグスティヌスからオッカムまで
著者:ルチャーノ・デ クレシェンツォ
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すべてを財産・経済に利用しなければ愚かで無駄だとおもうのはおそらくはカルヴァン主義なのではないだろうか?長い間戒められてきたものが、19世紀以降唯一の価値観として拡大しているのではないだろうか。・・・同時に、またルチャーとベッラヴィスタの言葉を思い出す。
「守銭奴は実際、憎悪に対してもけちなのだ。」
彼らやプチブルジョワジーは自分の財産に関することにしか関心がなく、愛憎の基準もすべてが金銭なのだ。こういう人がどのくらい多いかわからないが、マスメディアからみえてくるのは基本的にこの価値観が大多数を占めている。(しかし、価値観は多様なものであるし、多数が正しいとは限らない。そのため議論の余地があるのだが、今日ではそうしたことも簡略化されたりデフォルメされる傾向が強い。多少考えてみれば、思ったことを考えもせず、そのまま口にしたり、主張することがいかに容易で凡庸なことかわかるはずである。)

クレシェンツォのナポリ案内―ベッラヴィスタ氏見聞録 クレシェンツォのナポリ案内―ベッラヴィスタ氏見聞録
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クレシェンツォ言行録―ベッラヴィスタ氏かく語りき
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アッシジにぜひいってみたいと思っているけれども、同じものをみてまったく違うことを思う人もいる。それがあたりまえなのかもしれないが・・・
その例はゲーテである。ゲーテはアッシジにいってフランチェスコ聖堂に入り、嫌悪感、吐き気すら感じたという。当然ゲーテはフィレンツェにも興味がないらしく、まったく滞在していない。(「イタリア紀行」)
ただし、彼のローマ紀行文は興味深い。今日にはこの道程に写真もついた解説本もでている。
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しかし、同時に思い出すのは今日の日本人ツーリストもフィレンツェに滞在するときは大体半日もいない。それに対して見るべきものが多すぎて卒倒しそうだといったスタンダールの心境に私はいつも近いのだが、大抵の日本人には価値とは思われないらしい。端的にいってそれは、「普遍」あるいは「罪と救済と義務」のどちらも日本の中間層ツーリスト大半の価値観からは想定できないものだからのようだ。したがって彼らは自由時間にはアウトレットにいってしまうのだ。または単に鐘楼が傾いているという理由で「ピサ」に言ってしまう。正直いって、こういう行動自体が現地で顰蹙をかっていることに無知すぎるように思われる。店に入ってもあいさつもできず、お礼もいわず、言葉を喋らず、モノ以外のことには興味をしめさず、時宜をえた服装や行動をとれず、世界史をしらず、心情的なものを軽んじる・・・いやもうやめよう。すべての人がそうでないにも関わらず、同国人からみてもそう映るのだから、他国からみてそれ以上に評価されることはない。もちろん評価のためにこうした行動をすすめているのではない。また付言するならば、「物質」だけをとってもこの街を散策していても、良いものは沢山ある。むしろ「物」は有機的な意味で捉えられている、というべきだろうか。私からすればアウトレットなどに行くよりもフィレンツエにしか売られていないものを買うほうが価値が高い。店主とやりとりしながら長く使えるものを選ぶことをお薦めしたい。

忍耐、慈愛、謙遜、清貧、平静、労働、喜びがフランチェスコ会のえらんだ価値だった。わたしには忍耐、謙遜、労働、喜び、慈愛が重要におもわれるのだが、自然をあるがままに、すきなように、制約がないこと・・・と捉えるふしのあるドイツや日本の慣習ではあまり受けなさそうである。

換言すれば、尊大、放縦、放埓、浪費、消費、華美、虚飾、傲慢などが好まれるのは多数者の性質によるのではないだろうか。無駄をなくすという事柄が、実践レベルにおかれたときに、複式簿記をうみだしたというのもフランチェスコ会の多様さから生じたものではないだろうか。

個人的には多数者も個人によって構成されるのだから、個人が変わることによって、次第にかわることができると・・・思われる。だから、選択ができる限りにおいては、個人ができることは、最善に近い選択を行うことであり、それに対して蓋然的にならないことだ、と私はおもっている。
物質のみによって豊かさが実感できる人とそうでない人がおり、前者は他から奪うことを正当化するものを望んでいる。快さは無限、限りないものに属するのであって、それを追い求めても際限はない。

他方、信じるということは一切の懐疑を捨て去ることを意味する。
ただし神的なものということと、神の存在(現実態)とは異なる。感覚ー知ーから原因を探求する過程でそれ以上説明できないものがこの領域と古来から言われてきた。他方後者のほうは、様々な前提として「在ることを信じる」ことで「救われる(これ以上苦しむ必要はない)」として、または人間が責任を考えなくてもよい原因として、権力が自らを正当化するものとして要請するものではないだろうか。不可解なのは科学が進歩している一方で自分では何も考えない人が増えていることだ。科学信仰はほとんど病理的に拡大しており、機能主義と結びついてすべてを機能で解消できると思い込むふしがある。
私見では、日本ですぐに「神」という表現が用いられることをみると、ほとんどの人は無自覚なままで事足りているか、自分に利益があることでのみ(ご利益など)要請するのではないだろうか。

ルチャーは「正直いって神の存在を絶対的に信じられる人も、絶対的に否定できる人にも自分はなれない。」といっているがこのことも同意する。

またルチャーはマイモニデスの章ではこう説明してる。
「私は、信者も無信仰者も、ある原則を確信していると明言するが、実際には、まぐれで当たる、二人のうぬぼれ屋だ、と考えている。告白するが、そうはいっても前者(信者)が勝ってもらいたいと、願っている。」

この点に関しても同意見なのであって、何がいいたいかというと、エゴイスト、自分だけがよければ他はどうでもよい、快楽と放縦を謳歌するのが人間の生き方なのだとは思わないし、自らも同じ苦痛を味合わなければなにも理解しようとしないことや、また自らと同じ苦痛を復讐しなければ満足せずこれを正義とする人(因果応報)もまた由とはできないからである。多少なりとも建設的な人ならば、自分が味わった労苦・苦痛を他の人が再び味わうのはナンセンスで、自らも納得できるものではないと思うのではないか。賢明でありたいと思えば、因果応報は断ち切りたい、と思うのは当然ではないだろうか。

今日の嫉妬、羨望による浅はかは非難などは明らかに自分のために他を貶めるという方法に訴えていることが多い。暴君、有力者、支配者だけを記憶しようとする歴史が多いし、それについて問うこともしない傾向がある。
またアッシジのフランチェスコに関していえば、・・・個よりも家(オイコス)を重視する、もっといえば話会おうとしないで決め付けと力が過度になれば、第一子は離反することがままあるのであり、なおかつフランチェスコ的な生き方がイタリアでは賛同を得ていること、少なくとも記憶され、「よい」という性質をもっていることは、他人の痛みが自らにも関わるかどうかについてどう認識しているのか、という試金石ではないだろうか、と思うことが多い。