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写真は奈良 東大寺 三月堂ちかくから。

今日では美術愛好ということは所有や鑑賞の意味で語られるが、ロレンツォ・イル・マニフィコの時代までは、造形とは有機的な繋がりだった。売買する対象でも、商品でもなかった。フィレンツェでも一部はいまも教会を訪れるだけで見ることができる作品は多い。オンニサンティのサンドロ・ボッティチエリのフレスコや、サンタトリニタ教会のフレスコなど。このことは所有とは異なる価値観である。自らのありかたを自覚的にとらえたときに、芸術一般が望まれるし、要請される。ローマでカラバッジオを観られるのも同様である。だからこそ、敬意を払う必要がある。寄進とは本当の心のありようが示すものだからではないだろうか。

もともと誰もがアクセス可能な場所にあるからこそ、造形する意味があったのだ。だから今日、仏教美術も博物館で展示され、全国を巡回することを考えると、「モノ」化されている現代ということが理解できるだろう。
興福寺、薬師寺に続いて東大寺の展覧会も行われているけれども・・・奈良のよさは、実際にその場所に赴いて、堂内の空間とともに「知る」こと存ることについて考えること、立ち返ることが重要なのではないだろうか。

もちろん、展示においては、どう見せるか?ということも重要な問題ではあるのだけれども、場から切り離されたものは、やはり部分でしかない。対等な目線で「観る」こと自体、作られた当時はありえないことだった。なぜなら「物・物質・造形物」として見ることは目的ではなかったからである。博物館と展示室に作品が入れば、もちろん保存状況はよくなる、だろう。しかし、そうしたことがなくとも、多くは大切に安置されていた。法隆寺にいくと釈迦三尊が堂内に入りこむ風と接して安置されている。三月堂へ入ると、日光・月光(実際の様式としては梵天であるといわれるが)や不空牽静とともに堂内の空気を感じることができる。みうらじゅんが、日本ではここが一番落ち着く、と言っているが、私もまったく類似した想いになる。かつてやはり11月に朝一番の新幹線にのって奈良・斑鳩の秘仏公開と唐招提寺にいったことがあるけれども、その場所でしか知ることができないことも実際多い。そしてそこに住む人、見守ってきた人々と会話することでどれほど大切にされているか知ることができる。
価値、とはそういったものではないだろうか。

人びとが求め探求・活動し、生き、死んだあとにも遺されてきたものは、その場所に行くことでよくわかるもので、簡単に手早く、すべてを知ることはできないものである。