前回訪れたのは「マッキアオーリ展」、その前は「バレエ・リュスの世界」展ですから庭園美術館自体にいくのも久々。
娘の学校が平日代休になったので脚を運びました。

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庭園内の秋らしい風景をいくつか。天気がよかったので
静かでよかった。


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わたしはあまり工芸、貴金属造形などの展示には興味がなく、絵画・考古・彫刻を展示する機会がすくない庭園美術館自体にはあまり脚をはこばないのですが、アールデコ様式の建物がすきで、天井やランプ、モールディングなどみてしまいます。この展示ではガレ、ラリックなどの瓶もありよかったですけれど、デザインと瓶が表象する、中身、香りがもっとわかるとさらに楽しめる企画なのではないかと・・・目にみえるものだけでなく、大切なものは「中身」であり、それが見えないからこそ、視覚と技術(テクネー)によって造形されるのですから。

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展示室おくからウッドデッキに抜けられます。


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いつも混雑している併設のカフェも空いていたので利用しました。
カッペリーニと、娘はそぼろご飯と冷抹茶。
わたしはレモン冷酒にしました。

たった数時間ですが、いつもおそるべき時間に追われている日常なので、久しぶりに本当の静寂、時間の速度を感じられたような気がした。

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しかし余暇は拡大する一方の人がいる反面、(無論わたしは余暇などない・・・不幸か幸いかはあまり問題ではない)一体どこまで時間に追い詰められなければ日常もつねに終らない状態になるのだろうか。

本来の静寂、とかいたのは、静けさが快いからだけではない。
実存の認識と世界認識が平衡であること、その瞬間を感じることが、現代の生活時間ではほとんど皆無だからである。

極めて不自然なこの状態が、自明のものであるように、それを「やりくり」することが「有能」であるかのような錯覚が現象している。かつて生活と創造は別の領域で成り立っていた。
先週までの疲れは自分では気がつかないほど蓄積していたようで、なかなか最低限のことも思うようにはすすまず、・・・ 
時間感覚に過敏になるのはあまりよくないので、自制したいところ・・・

19世紀までといったほうがいいかもしれない。(例えば多くの公職者は一方では作家や詩人、画家、書家だった。生活のための時間と、人間であるための活動は別であり、人間=消費するだけの存在とみなされるのはアメリカでは60年代、日本では80年代からである・・・)
今では、二者択一であるようなことが、当時はいずれもかが可能だったのだ。

おそらく、そのことを忘れさせるために、考えさせないように、気がつかせないように、多くのカリキュラムや2000年以降のメディアが、そのことを表象する。病理が流行・スタイルように見せかけられていることが多い。