P1080865






おそらくベジャール・バレエの80分間世界一周でわたしたちが見届けるものは、世界の多様性である、音楽と舞踏はつねにその土地と歴史が作り上げて、求めてきたものである。「恋する兵士」や「ブラジル」で私たちが目にするのは、ダンス、舞踏、バレエがもつ生と生き方の美と熱情と、それを超えて発現する死のタナトスである。
(ただしよくあるような死の美化や美学といったような軽薄なものではない)
生そのものが、純粋なエネルゲイアとして身体、舞踏を通してみるもの(観客)、周りにいるダンサーと共有する。
ベジャールは「人間は働くことだ、休むことではない、休息は目的ではない」というがそれは真実だ。ダンサーはバーの前で、10年以上身体と精神を創る。
「人間を超えるものの中にあって、常に人間であろうとすること」

北極のシーンは、・・・わたしは人間を超えるものの中にあって、つねに人間であろうとする者たちの行く末を見る。自らがその大地、大気、有機的コスモスを破壊する人間とたわむれるペンギンたち。
純粋さと完璧さは同等であるというふるい言葉を思い出す思いだった。
私観では、「魔笛」のパパゲーノが、落胆し絶望し自殺しようとする直前(このパパゲーノはモーツァルト自身であると解釈されている)に、銀の鈴を鳴らすと天使があらわれる場面となぜか重なる。モーツアルトの天才さ、ベジャールの才気、最晩年、死の間際につくられたこれらの作品には類似するものがある。
音楽でも物語(レシ)でもないもの。

ベジャールのバレエは、神話的であり現代にも問われる人間性、必然性、遇有性、モイラやフォルトゥーナ(fortuna)について語るのだが、音楽に対してはもっとダンサーは自由であってもいいと思う。振り付けは忠実にまもり、それはテクストとしての継承だが、ダンサー自身は音楽という生きているもう一つの流れにも自由であるべきだ、と思う。音はつねに同じ音は流れていないはずであり、・・・もう一つの形は音楽の中にあるからだ。

身体の言語化による芸術表現としてのバレエが、本来声や言葉を用いないものに徹しているとき、ベジャールにとっての「言葉」「ナレーション」「叫び」は・・・むしろ言語のプリミティヴなものを意図しているのか。このことに無意識になると、コンテンポラリーは、時代だけの意味しか持たなくなってしまう、ように感じることがある。
(もっともこれはわたし自身が、今、言語によって表現しなければならなこと、言語によって分析し、記述し、解釈するとう作業を膨大な古い時代の資料の中で行っているからかもしれない・・・・)
存在、在り方(生き方)、それそのもの、esse...ratio...

ヴェネチア、サハラ、アンデスのパートがすばらしかった。ギリシアの音楽(タラサ)素晴らしい。ギリシアの踊りのみの公演もまた観たいと思い、ミシェル・ガスカールのソロを想起した。


P1080866


P1080867 


デイビッド・クピンスキー David Kupinski ガブリエル・アレナスGabriel Arenas Ruiz、 アドリアン・シセロン、Adrian Cicerone, 娘はDaria Ivanova、またジュリアン・ファブローはすばらしかった。 
映画「ベジャールそしてバレエは続く」の「恋する兵士」でも那須野圭右が踊っている。

私の拙いフランス語でも舞台の感想を少しでも伝えられてよかった....
映画「ベジャールそしてバレエは続く」も見ていましたから...

東京公演は11/14(日)まで。西宮11/19(金)兵庫県立芸術文化センター、 岩国11/21(日)シンフォニア岩国コンサートホールでも公演があります。




『80分間世界一周』 ベジャール・バレエ・ローザンヌ 【DVD】
『80分間世界一周』 ベジャール・バレエ・ローザンヌ 【DVD】


私たちが生きる世界や意味のすべてが、機械的数量的金銭的価値観に覆われたならば、おそらく私たちが生きた時代もまた忘却されるだけなのではないだろうか、それを必然の手にゆだねてしまうのか否か、それは観客(日常では仕事や役割があるだろう人々)とダンサー、舞台にかかわる人びとすべてを繋いでいるテクストなのだと、わたしには思われる。