Se a ciascun l'interno affanno
si leggesse in fronte scritto,
molti che in vividia gia ci fanno
ci farebbero pieta.

もし各人の内なる悩みが
額に書かれているのを読めたなら
われらに羨ましく思う多くの人が
われらに哀れみを催させるであろう


前にも書いたことがあるのだが「自分は苦悩している」と書いたり、言ったり表面化することはそれ自体、快さを持っている証拠なのだ。(プラトンがいうところの苦しみながら喜ぶという快さ/悲劇やときおり「泣ける映画」などのふれこみ宣伝などもこの手の自己陶酔を感じるが、苦しみながらそれ以上の快さを自己正当化するのではないか。
更に他人の犠牲を「美化」してそれに共感したり感動するような人もいるが、こうしたような心性に無自覚な人が家(オイコス)の中にいる場合、その人の快い生きかた、感慨を保つために、なかば自己犠牲が要請される・・・ 


私見では、実際に自律し余裕を保っているように振る舞い、他者を励ましたり協力をおしまなかったり、自ら何かを実践したり、忙しくても身なりなどには気をつけたりしている人、内なる輝きを持つ人ほど・・・・かなり実際的には余裕がなかったり、苦悩するものだ。

他者といるときには、私は苦悩していますといったところで何になろう。共有するならばよろこびや対話自体を大切にしたほうがいいだろうと思う・・・ このことは以前にBさんとも話したことがあるのですが、忙しいしこれ以上どう時間をやりくればよいのか?という事態になっても、あの人は仕事をしているから、とか、あの人は子どもがいるから、とかそういったように思われてもいいことはないように思う。ので、やはり結果的には無理するのが普通!ということになる。換言すればせざるをえない。
その事自体には全く悲観的にはならないですが、しかし自分の努力や行動、言動すべても、無駄になるようなことも多々あるわけです。

私はロレンツォ・イル・マニフィコのように良かったと思える時期もなかったのだが(大抵の人は子ども時代から若いときに愉しいことがおおく、楽しみ自体も多かったという経験があるからのようですが)
この4行の詩は的を得ている。かといってあわれみ、ピエタ・・・を自由意志の下にあるひとがもとめてはならないようにも思う。

にこさんの散歩に1日数回(多いときは4時間おきなど)看護をかねていきますが、端からみると優雅にみえるといわれたが、内心ではとんでもない。「時間がない」といういいわけも・・・あまりしたくない。
(この手の言い訳はしたくない...)

時間は作り出すものですから・・・

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デザイナーのRさんから中川七政商店の文香をいただきました。

桜の香り。奈良へいき若草山をみたいです、奈良の鹿たちはならまちと共存していてすばらしい。
行ったことはないがアテネでもいぬたちはきっと町と共存してることだろう。犬儒学者・キュニコス派というものがいた時代とあまりかわらないよさをもっているのだろうか。バリもいぬたちは自由に暮らしています。
レメディはビオリーブスのローズ。P1080766


Kさんからジョット展の図録をいただきました。この展示、行ったのですが図録は買わなかったんですよね...それからヒッポクラテス医療を取り入れた、ギリシアの化粧品も。ありがとう御座います。

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ヒッポクラテス的医療はすべてが肯定できるものではないが、19世紀まではまだ機能していた。人間は機械ではないから、もっと有機的な視野でとらえないと健康というものには近づけない。現代医療はすくなくとも、人間機械論に因っている。だがそれですべてが解決できるわけではない。
解決できるはずである、治るはずだという前提が確保されることで、どうにかこうにかやっていけるレベルを保つことよりも、「治す」という目的論が優先されることは人びとにとってよいことなのか?

陸上競技大会に選手で出た娘は30校中高飛びは2位で、リレーは1位でした。重要なのは順位ではなく・・・、自己目標を会場で達成できたことではないでしょうか。アリストテレスがいうところの「潜勢力」について、最善なのは「自らそれを成そうとするもの」ヘシオドスも書いているように−−私は他人と比べるのも罰や褒美でしつけるのも嫌いなので、自己規範を追及することのみ、他人と協力するように、傲慢にならないようにとそのくらいのアドヴァイスをしていました。逆に今の家はとにかく名誉、順位付け、他とくらべる価値観でして・・・大抵の人はそうなのでしょうし。

とにかく怪我がなくよかったです。朝7時には練習に行き、帰りは17:30ごろになることも多く、そのあとは英語や数学をやっていますので帰りは23:00すぎです。10月は私も娘もテストが2つあり−−
しかし自問してしまうのですが、かつて子の受験と自分の論文書きが重なっているということがあった人がいるのでしょうか。(いやない)
いやいるのはわかっているのですが、自分の能力の低さを思いますね。やればやるほど、人は先人たちに対して畏敬の念を抱くものです。逆に無知な人は、嫉妬や羨望でそれを解決しようとするようですが、無知というのは・・・量の問題ではなく、自己認識の問題です。

時間軸というものが自覚的にあるときに、すでに認識は4次元のところにある。それゆえに、そういった意味で辛いのだ。現在を楽しむことができない。これは私の場合は幼少時から続いていることで、10年に一度ずつ?現在だけを考えていられるような時期と、時間軸の中で右往左往している時期がある。もちろん理由はそれだけではなく、そのときは自分で努力しても無かマイナスに状況が悪化することがある、それゆえに私は基本的に家父長制度を絶対化するのは認められない...。世の中には、自分だけがよければ、他がどうなってもかまわないという種の人間がいるのであり、そういった人びとはそもそも権利だけを手にしてはいけないのではないかと思う。権利と責任と義務は一体のものだから意味があるのだが・・・
それゆえに、カテゴリーの問題にして、それ自体は何も問題はないとする考えが、様ざまな問題の根源でもある。
ただし私は、感情的、復讐心、嫉妬心の強いいわゆる一般的女性・母親という立場も肯定できない。ちなみにこの問題もカテゴリーの問題ではない。ルチャーノが言うところによれば、このカテゴリーには嫉妬深い男性、古いタイプの企業家なども入る。

寒くなりました。秋がとても短く感じます。夏か冬しかない、と映画「The Age of Stupid」でも言っていましたが、その通り。

そしていつから楽をすること、何も悩まないこと、何も考えないこと、できるだけなにもしないこと、が人の生になったのか.....
現実には、そういう人が増えれば逆に労力がまったく報われないことも出てくる。バランスの問題であって、ものや時間は決まっているのだから、どこかがゆがむしかないのである。そのゆがみを少なくしていくことしかできない。こう書くとペシミスティックだが、しかしその際に善さに根ざしてとらえることが重要ではないだろうか。

究極目的論者はすべてを破壊する。破壊者は、生成すること創造すること構築することの意味も意義も価値もわからないのだろうか。