分刻みに行動しても(といっても時間は絶対的なものではなく、5分でもなにかはできますし、何年も無為にすることもできる・・・)なかなか充分な時間がとれない状態です。

にこさんは血液検査もし、回復しました。本当に9月はもうだめかと思いましたが(出張にいく前の夜中に具合がわるいからと、実家からつれれこられて以来、丁度立て続けに用件が重なるという状況で)通院、投薬を繰り返し、元気になりました。生命が生きる望みをもとうとする力はおそらく・・・合理的に説明できないとしても、単に物質的なものだけではないのです・・・・

動物にも個があります。散歩にいけばその動物のもっている知覚で構成され、認知される世界は人間とは異なるのです。
だから散歩というのはいぬたちにとっては、認知の場であり、自分の存在をマークすることなのです(縄張り意識とかそういう段階よりもももっと自己と世界を繋ぐもの)毎日散歩にいく必要があります。

獣医さんにいくと、話や説明もしやすいとおもいます。
動物と接するときには、動物の振る舞い、行動などを観察して、検査をし、飼い主とのコミュニケーションで治療をすすめますよね。
人間の医者にはどうもコミュニケーションによって治療をすすめるということがないので、自分がかなりの不調でも診察をうけようという気持ちになれません・・・結果的にいつも治ったことがないからでもありますが・・・
(要するに日本の医者にある、ある種の傲慢さ)

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(写真は9月末ごろに撮影したにこさん。元気になりました)

動物=癒し というような、単に人間の快さ、気分を紛らわすための道具になることには反対です。役に立つものが善いという、テロス(目的)至上主義者ならばそれはよいと判断されるのかもしれません・・・・
しかし、楽観的に動物=いやしと判断されて、もし、面倒だとか思うとおりにいかないとか、思ったようにいかないと思うとき、あまりにも安易に「飼えない」と捨てる、殺すのは肯定できません・・・・
大型ショッピングモールでブームによって繁殖させられたいぬやねこたちが、安易な可愛い、癒されるというような理由のもと売買され所有される。
イオンなどの施設が拡大して消費がすすむ一方、その傾向は拡大している気がします。


実際、食が細いにこさんの食事をカバーするのは、私観では、離乳食期のこどもを育てていたときとおなじ労力を要しますし、でも食べてくれれば本当に安心ですし、嬉しい。問題はわたしの時間のなさ、いつまでにどこまで終わらせられるかということを、実践しなければという、配分の問題なのでしょう・・・体調がやはり多雨で気温が低い、日曜や土曜も多忙である、締め切りが重なるといったような理由からなのですが。
自足できるようにしたいものです。
イギリスのことわざを思い起こします。足るを知るということが重要なのでしょうが、一方で自己肯定できなさが横たわっている。

私には「良心」という言葉がもつある種の一方的な響きを疑わざるをえないところがあります。

私もまたやるべきことが期限・期日ある状態で続いており・・
なすべきことをすることの繰り返しです。
しかし家族を含めて他の人に負担をかけたくない、と思うのです。

一方で、やはりなるべく自分はなにもしたくないという人も多いわけで...

口先で、言葉だけで「無理しないでください」というのは簡単です。
自分の生き方自体が他者とのかかわりにもよっている、ということに気がつかない人には、自己の利益を言動の根拠にし、正しさを疑わないのでしょうか。

感情的に、しかも威圧的なことで同意を取り付けることを当たり前だと思うとその方法論が正しいと思ってしまうのかもしれません。
また想いのつよさで相手を一方的にひきつけておきたいというのは、
暴君的なのです。
しかし暴君的な人にもしそのことを指摘したら、その人を除いて誰も生きてはいられないでしょう・・・
何かを指摘しても、それを感情的にしかきかない人には何もいえないのです・・・。

書かれたものはすでに何かの表れになっているわけですが
何も書いておかなければ何も残らないわけです。
それでよいという態度も、何も書かないという選択もできるのですが、
そもそもやはり、ローマ初期において、「記述によって遺しておくべき価値があるものを文学とよび、そこには歴史も含まれていた」ことを思うと、何か書いておくべきなのかとおもいます。

問題は対話によってなりたつような、共有するべきものが、実のところ、最初はテレビによって、そして今は「動画・絵文字」化された情報となってしまい、一方的な情報とイメージの流布は考える力を奪い、思惑によって感情的同意をとりつけるような輿論構成になっていることです。
インターネット上でも恣意的なものは沢山あるのです。