数検協会発行、言語力育成会議第1回提出資料が手元にあるのだが、この冒頭では ルネ・デカルトの言葉として「人間は考える葦である」という引用文がある。・・・冒頭からパスカルの言葉を誤ってデカルトの言葉であると引用するこの資料は、その後イマニュエル・カントの言葉を出している。そしてこの二人の「先哲」はといいながら考えることの教育論を言うのだが、「先哲」というニュアンスにはどこか権威従属的なものがある。

教育において教師が権威的なものをちらつかせるのはよくあることであって、それは、繰り返されるイメージによって想起させられ、正しいのではないかとう想いによって、正しさとして植えつけられているのではないか。

正直いって、教育に関わるひとの多くが、生徒という個人よりも、親であるとか地方議員であるとか、役所であるとかなにかしらの権威(的ではかならずしもないが、そう思わせる力があるもの)に対して従属的な態度をとることが多い。本来の理解は批判を対話的に行うことで近づけるのだが、どうも日本とドイツの場合は、はじめから権威に従属的なのだ。

そういう場にいくとき、大抵そのことを指摘しても、その人たちは感情的に非難や否定だと思い込むため、そして私の性別や年齢というものを「見て」判断するからなのか、(要するに年功序列的志向)相手から敵意をもたれるだけなので、そういった人には何を言えばよいのか、どう接すればよいのかと思うことがある。わたしは無意味に感情的な対立を望まないので、何をもとめているか、それにあわせることはできる。だがそれされも、接し方としては正しくはないだろう。
日本は基本的に感情の対立をさけることがよいことだと思っているし、迎合的、従属的なことが「正しい」という、個人より体制・システム保存を優先するので、あまりよりよい状態を望むということはしないようである・・・

そうした志向と態度にもとづく行動と選択の繰り返しによって、皆が不合理だと感じる社会ができているのにもかかわらず。


問題は能力主義を標榜しながら、本来は自分たちの利害をまもっておきたい、得をしたいという想い、傾向性によってほとんどの教師という職業についているひとが無自覚であることが多いことだ。

問題なのは、この資料が、新指導要綱のための資料であることだ...
H22年5月版だが、H18年に提出したものらしい。このような問題が、ほとんど教育や逆に知識を専門とする領域の人びとから吟味されないままに、国の教育システムとして、文部省がかかわって作られていることが問題ではないのか。


最近は、ヒエラルキー的なものを何の検討もせず受容する傾向があるが、科学信仰の次には「理系信仰」のようなものも顕著である。
何かを絶対化することは思考停止状態を引き起こす。
数学は誰にでも説明可能かつ、実際には存在しえないような三角形のようなものを定義することはできる。・・・・そういった意味で、算術と数学の区別も曖昧なまま、何か一つだけを絶対化することは危険であるし、たとえそれが数で表されようとも盲信的になるべきではない。