他者性とは、相手がどうなってもかまわないという排他的感情であり、特定のひとをターゲットにはしていない。集団が集団に対して、このまったく曖昧なものが、曖昧なターゲットについて、過剰な感情を抱くとき、特に注意が必要である。相手に対してというよりもむしろ、自分がその感情にまきこまれていないかどうか、という点においてである。悪意、もしくは、仕方がないと暗黙のうちに思うことも含まれる。

このことはナショナリズムとかかわるとき、そしてそれが多数が支持しやすいような形で流布されるときに、共存不可能な状態、全体性へと繋がっていく。アイデンテティは、肯定的なものだけとは限らない。自らのマイナス感情を修正するためにはたらいていることもある。または集団のマイナス感情がそれを要請する−−−大抵の場合、不況時にこの感情が興りやすいといわれている。(今回もそうである)私は「景気」という言葉があまりにも曖昧かつ、具体性を欠いていて、因果関係が不明なまま成り立つ感覚的なものを含んでいるため、もっとも信用ならないものは、「景気対策」である。ニュースの街頭インタビューなどで景気対策と口にするひとほど、やすやすと口にするし、それが何を指しているのかもおそらくあまり考えないだろう。
(そもそもが政治は政治なのであって、経済のために政治があるのではない。政治と経済の分野が異なるのに、一緒のものと思われている。理学部と工学部が異なるものなのに、一緒に考えているところも奇妙だが。経済はもともとはエコノミー(家政)である。これは家(核家族ではない。拡大家族である。経営する家の単位)の運営であった。国をどう運営するかということに、市場経済の影響が強すぎるのであり、輸出でものを売り、食料を買うという構造、消費過多で、廃棄過多でもある問題は、個人にまで還元されるものだろう。

個人がどこの共同体に属しているか、地球というものなのか、宇宙というものなのか、国家というものなのか、地方自治的な共同体なのか、家なのか、それとも自分以外はすべて他者なのか。最大化しても最小化してもそれは適当な解釈ではないだろう。流行というものがつねに、そうした面を反映していることはメディア解釈などを通じて行うことができる。つまり脅威をつねに作り出すこと、外敵をつくりだすこと、それらにたいする恐怖を利用して求心力をつくりだすこと。本当は排除する理由はないにもかかわらず、排除される、つまり断罪された死をうけいれることがしばしば生じる。
・・・・
何か求心力を得たいとき、正当性を得たいとき、顔のわからない敵がつくりだされ、レッテル貼りが行われる。自己保存の欲求は屈折した形で理性を失ったときに、他を排斥することで自己を保とうとする。


ナショナリズムと民族性は、互いに互いの暴力行為を記憶している際に暴走する。だが、奇妙なことに最近のナショナリズム的傾向は、30代未満から10代、40代あたりにも奇妙に多いことである。これはおそらく個人が個人の視野をもたないままに、ほぼサブカルチャー的に受容されたものではないだろうか。または、祖父母にあたる人びとが敗戦時を少年期にむかえたひとたちによる思い込みのつよさによっているのか?
(つまり石原慎太郎の世代である)

家庭内、職場などの日常会話的な話題にさほど吟味がなく民族感情がでてくるというのは、それをしないとアイデンティティが成り立たないほど、自己認識が希薄になっているのではないだろうか。しかも一部の学校では、教師と生徒の雑談にこうしたレッテル貼りが行われている。その内容は朝の民法ニュースや週刊誌の見出しなみにデフォルメされて騒点として繰り返されるものと同じである。



民族感情はその出自によって決定されるような部分があるために、最初から個人というものを識別しようとはしない。仮にするとすれば、「役立つ」とか「名声を高めた」という理由で妙に持ち上げられることはある。その意味で個人が確立したところでは、「英雄」という言葉はほとんど褒め言葉にはならない。相手がそういう言説をしているからといって、それに付き合って感情的な対決をしていても無理はない。力に訴えるべきだという話も極論である。

ところで力には力でしか対抗できないという主張や、法が現実にあわないからといって変えるべきだという理論は正しいのか。

私の思うところでは、例えば、核兵器は抑止力になるかというと、容易にそうだとはいえない。外敵による恐怖には外壁が作られていた。しかしこの外壁を破壊する技術によって都市は外壁で防衛できるというものも崩れた。この理論とおなじように、力の所有(保有)によって解決できるというのは単純すぎるといわざるをえない。古代ペルシアには七重の壁をもつ都市があったが、それも陥落したのである。核兵器はしかも城壁のようなものではない。もはや誰も生存できないほどの力を持っている。その保有や行使が「多数者」の支持をとりつければ、「よい」のか。
感情的に自己の正統さや正当さを主張する際に、単に相手(しかも顔がみえない相手)を敵としてみなすことが、マスメディアによって流布されることに危惧を覚える。さらに、社説などは一切よまなくなり、一日中携帯電話の画面をみていてそのニュースで世界を認識しているような人が増えたり、目にする話題で世の中を捉えようとすることが問題である。

もっといえば、目をひきつけるために、そしてそれを「売る」「切り売りする」ために、極端な見出しをつけることがまた問題にされなくなってきている。

知識とそれを流布する機関・媒体の乖離は甚だしい。
受容する人びとはそれほど大差ないのかもしれないし、個人個人ではそれなりに良識的な行動をしようというレベルは崩壊してはいないのかもしれない。しかし単に良識というものが目指されている限りでは、おそらくその水準は停滞するか低くなるだけであろう。よりましな状態を望むのでなければ、おそらくは何も改善されない。また向上するということもないだろう。
ナショナリズムと民族性は、互いに互いの暴力行為を記憶している際に暴走するが、奇妙なことに最近のナショナリズム的傾向は、30代未満から10代、40代あたりにも奇妙に多いことである。これはおそらく個人が個人の視野をもたないままに、ほぼサブカルチャー的に受容されたものではないだろうか。家庭内、職場などの日常会話的な話題にさほど吟味がなく民族感情がでてくるというのは、それをしないとアイデンティティが成り立たないほど、自己認識が希薄になっているのではないだろうか。しかも一部の学校では、教師と生徒の雑談にこうしたレッテル貼りが行われている。その内容は朝の民法ニュースや週刊誌の見出しなみにデフォルメされて騒点として繰り返されるものと同じである。

最近になって気がついたので遅いのだが、新聞もTVも北朝鮮を単に北朝鮮と書いている。「北朝鮮」=「独裁」という言葉が一行内に書かれているし、それをあたりまえのように思っていたのだが、この国は、建前上は「民主主義」を標榜しており、投票によって選ばれている。彼らにとっては、これが民主主義であって、疑いをもたなければ、それが間違いであるとは思わないのだろう。間違いであると気がついた人のこの場合の悲惨さは想像にかたくない。・・・・・では相手側は日本のことはどう認識しているのだろうか。数字上、軍事費が異常にふえているのをあまり認識していないのは日本人のほうだろう。数字上でも、おそらく日本は軍国化している、というのは簡単なことのように思われる。
では国内ではどうなのだろうか。すべてなにも問題はないのだろうか。
国内の問題といって、政治家、公務員などあるカテゴリーを非難することは簡単だが、主権者それぞれが、主権者であるとどのくらい自覚しているのだろうか。TVなどの国民という言葉の使い方は奇妙である。自分たちがそこに含まれているのかいないのか曖昧である。TVにとっては視聴者であり、企業にとっては消費者でしかなく、民族感情だけにうったえているのは、国民意識でもなんでもない、ということなのだ。
「自分たち」の問題にもそれほどは関心がなく(ヤフーなどのモバイル版ニュースの欄や、ポータルサイト、ブログの主要とかいてあるニュースがどう主要なのか?)

他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究 (叢書・ウニベルシタス)他者の受容―多文化社会の政治理論に関する研究 (叢書・ウニベルシタス)
著者:ユルゲン ハーバーマス
法政大学出版局(2004-11)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


またこのことは私たちの日常的現代社会にも大きく影響する。
ハーバマスがいうところによれば、平等の原則は浸透するに従い、実際上の不平等を鮮明にする。
たとえば結局のところ、女性は育児負担や出産で2年程度は、それまでと一変した環境と境遇を受容するしかない、ことが多い。
そして子供にとって望ましいのは、という理論。応報型のこうした、繰り返されるシステム。実際の問題の根幹もまたそこにある。
実際上の不平等、たとえば大土地保有者や不遇の事故によるライフプランに対する急激な変化、例をあげれば枚挙にいとまない部分もある。
身体的にも肉体的にも負担を要する。そしてそれは応報的に、むしろ女性育児経験者などから「当然」という認識のもと改善される余地も緩慢である。・・・・


私たちは共通するものと自己認識を同時に問う必要がある。
権利を権利として保つためには、あるがままでは成り立たない。

暴力を放棄するということを名文憲法として持つことを否定してはならない。現実が変化しているからそれにあわせて変化するべきだという意見は様々に見られるが、それが果たして適切かどうか、考える必要がある。

個人という領域がなりたたなくなったときにはもう遅い。