オーロラは、難しい役である。「sleeping Beauty」は一見単純な御伽噺のように思われがちだし、実際そういう解釈で演じられたり演出さえたりすることもある。だがこの19世紀クラシックの演目の役はすべてが「概念」でもある。その中で1幕のオーロラは、純粋さ、優雅さ、生成されたばかりのというような若々しさ、機智をあらわす意味での俊敏さ、などが形を通した表現として求められている。ダンサーはこれを完璧さとそれを超えようとする伸びやかさ、および目に見えない美を音楽性を通して表現することが求められる。芸術作品としてのバレエは、多くの絵画や彫刻がもつように、実際には存在できないかもしれない美を視覚を通して知覚したい、目にしたいということが、パの正確さやテクニック以上に求められる。

アリーナ・コジョカルのオーロラにはそれらがすべて含まれているので、DVDで観るたびに感嘆する。
テクニックとは表現のためにあるので逆はない。
技術はだが絶え間ないリハーサルとレッスンによって支えられて、その中からインプレッションを生み出すのだろう。バレエは形をとおして私たちの視覚と精神に影響を与える。振付家や芸術監督は、絵画や演劇よりもむしろ、文学と哲学から相互に影響を受け、ダンサーは絵画や造形作品、活字などから表出すべき表現や概念を抽出する。そして、それがテクニックと合致できるかどうかを目指す。
私がレッスン風景やリハーサルを見るのが好きなのはこうした一つのものを創り上げるためには、多くの要素とダンサーたち、指導者たちの取組みが「生成」されていくための「多層」をもつためである。

言語を持たないバレエが言語以上に語るのはそのためである。だからそれが成り立ってないか、芸術監督がそのことを理解していない劇場の場合、舞台全体が表面的にみえる。

「眠りの森の美女」とドイツ風に訳されているが、こうして改めてみたときこのタイトルは本当は「眠れる美」というような意味で解釈したほうがよいのではないだろうか、と思う。日本ではイコノロジーがあまり定着していないから未だに「自由の女神像」などと呼ぶが、マンハッタン、リュクサンブールにあるのは「自由」そのものを擬人化したものなのだ。だから女神ではない。そういったとき、このタイトルは美は多層にあってどの役にもそれが振り分けられていることになる。それぞれが表現するべき美があり、それが演じ分けられるので、クラシック作品として誰がどう踊るか、ということがとても重要になって、長く親しまれる理由にもなっているだろう。

要するに、演劇的ドラマ性やストーリー、感情表現を追う様なクラシック作品ではない。
単に愉しむこともできるが、パリ・オペラ座や英国ロイヤルといった劇場ごとの解釈が違うことも含めて奥の深い作品だと思う。(どの王朝時代の様式なのか、この二つの劇場では、100年後の3幕にはちゃんと100年後の様式として舞台美術も衣装も転換されている!)
逆に表面的に形をつくることだけに専念されていたり、再現だけが目的のようだったり、時代設定と美術があまりにも様式を欠いたものだったりすると全く面白くない作品になってしまう。