雰囲気というものがこれほどもてはやされること事態、消費社会と記号化、マスメディアによる影響であるとボードリヤールはかつて書いたが、現代ではあらゆる「雰囲気」によって真偽が定まっていくという「雰囲気」があるように思われる。

脳死は初めから「ヒトの死」ではなかった。アメリカでは臓器移植は合法的なものとされてきた。何かあらかじめ「イメージ」として良いもの、として浸透していくとき新たな間違いが進展していることが多い。

最初に認識しておくべきなのは、人間が生命を維持する装置は莫大な経費を必要とする。そこでそうした装置の経費を支える人間の負担が、生命維持装置の経費を支えられなくなる事態がしばしば生じてきた。この問題と平行して臓器移植の技術が進み、「合理化」するために「脳死判定」をめぐる議論は生じた。初めから「脳死」という概念は「費用」という金銭的な問題と絡んでいるのである。

唯脳論などが読まれている日本ではもう人間=脳とでもいいたげな風潮が浸透している。しかし脳はたしかに人間の肉体的・精神的な部分においてもっとも関連している部分ではあるが、一つの器官である。生命と生物は、物質だけで構成されているのではない。

高額な費用を提示され、世間的な風潮と医者という「権威」が[臓器移殖]を提案したとき、それを拒否できるような選択がのこされなくなるのではなか。たとえ脳死を認めても、臓器移植を死体損壊ではないという根拠はなにか。他利がある、という理由はいくらでもできるだろう。医者が善さに基づいているとどういう基準で考えられるだろうか。むしろ目的論的ではないのか。誰に優先権が与えられるかという問題もある。

また長寿は、心身ともに自律自立できる状態でないのに用いるべきではない。単に生きる年数を増やすことにどれだけの意味があるのか。
高齢化社会とは、逆にいえば、若年層の生活場面を奪っていくことを意味する。親の面倒をみていては自分の自由が奪われることを望まないひとびとが介護を行政に(限度なく)求めるだろう。何でも自分の思うとおりにならなければ気がすまない世代というのが存在するのだ。何でも背負い込むのは問題である。だからといって、何でも他人を頼りにするというのはどうなのか。

ところで日本は低所得でも税負担が他国にくらべて多く、高所得層ほど負担が軽いのである。これは統計上現れている問題である。中間層はどの国に比べても負担が高い。だから産経(ネットや携帯のニュースはほとんど産経が占めているので、ネットと携帯のニュースを情報源にしている人ほど操られやすいのだが・・・・)などがいうように、社会保障は財政を圧迫しているとか、低所得者は税金を払っていないというような話はあまり信憑性がない。ネットを使っていると「情報」で満たされているような錯覚を覚えるが、実際には「利用されやすい」情報ばかりで満たされていると思ったほうがよい。ポータルサイトの「主要」ニュースがどれほど「雑記事」で埋め尽くされていることか。




少子高齢化、と何でもひとくくりにして単純化するのはマスメディアの手法だが(なぜかといえば常に次数が限られているから、でもある。TVの場合は秒単位で作られるし、つねにヒトの興味をひいていなければならない。)
この問題は様々な世代とカテゴリーに当てはまる問題として考える必要がある。最も愚かしい「解決策」は自民党政権で優勢だった「女子の高等教育をやめろ」というもの。イギリスがなぜ近代国家として成功したかみてみればよい、イギリスは女子相続権を認めたからーたとえそれが家(オイコノミア)の保存の合理性が理由であってもー女子高等教育が実質的に成功している。これに対して、最悪なのは「男性ヘゲモニー」を支える「良妻賢母」を単に育てて体制保存だけを目的とするような考えである。知よりも対立を避け、考えることよりも情緒を重視する。しかしなにも情緒が大切なのは性別に関わるわけではない。知も人ならば必要なものなのである。知を得られない時、概してそれはうまれながらのもの、に還元されていく。性別、身分、人種、民族、肌の色、目の色、などなど・・・

近隣諸国でナショナリズム的な動きがもしあっても、別にそれにあわせて歩調をあわせて嫌悪感を強めることは、結局相手側のメディアに報道のネタを提供するだけである。自分がどうしたいか、よりも、相手にどうみえるか、どう理解されるか(誤解されないか)をもう少し気にかけるべきである。

なぜ問題視しているかというと、日本では高等教育においてすら倫理学が問題にされることが場合によっては全くないという状況が生まれているからである。最近は医師が訴訟を避けたいという理由から法医学・法学を学びなおすというような例は増えているようだが、倫理学に関心を寄せることはあまり聞かない。(逆に今まで知り合った人の中で、生死に接する機会が医師と同等であると思われる看護師の方は、生命倫理から死の問題、尊厳の問題などといったことから哲学や倫理学へ関心を寄せる人にはであうことがあるが) 更に問題だと思われるのは、医学が絶対視されたり、学術の最高位であるような錯覚を多数の人が抱くことは望ましくない。8月の読売新聞には「子供は親を選んで生まれてくる」といった、全く根拠のないない本が広告に掲載されていた。意図は明白である。こうした人の主張は、「奴隷が奴隷なのは、前世でそれが当然となるような行為をしたから/親の行いによってそれ相当の子が生まれる」といったうような根拠ない主張、因果応報といったような、自己肯定の補完にすらならならないような、意識のもとに展開されているからである。私が出版業界から離れたのはハウツー本や、ブームといったものを第一におき、真実かどうか、読者に事実の情報量を与えるよりも、売れるもの、部数を増やしたいという思惑が出版会全体を覆っているからでもあった。更にいえば、著者ですら、実際の著者ではないことが多いからである。編集者は、mail添付で原稿をやりとりするために、単に分業の斡旋をするだけであり、誰も原稿を読まないこともままある。大規模書店の店頭に並ぶのがそういった本である。


余談だが、手塚治虫の「火の鳥」(初読したのは小学生の頃で黎明編と未来編だった)で「脳髄だけ生きていて他の身体すべてが機械」という「おばあさん」がでてくる。美味しいスープだとそのサイボーグ化されたおばあさんは目が赤く光ってジュネに教える。死をおそれ、「死にたくない死にたくない」というこのおばあさんが望んだことは「脳髄」だけの生である

死とはなにか。肉体と精神とをめぐるこの問いは有史以来問われてきた。
ゼノンは哲学が「死に対する軽蔑」を教えてくれるという。この態度には共感するが、多くの人にとって、やはり生命を延ばすことに腐心することが命題となるのだろうか・・・・・

私は今でも、いわゆる機能主義者的な立場の人やその著作についての書き物をするとき、現代版の「異端審問」にかけられている気持ちになる。
「ロボットの心」の著者ははっきりと言っている。
次の著書あたりでサール的な何か物質と関与しない部分がある、精神という物質に還元できないものがあるという立場の人を一掃してしまいたいと。こうした言説が言論の立場から提示されることに戦慄する。
しかもこの著者の元所属していた国立大学とその学部の教職は私が子供を妊娠中に夫が依頼を断った大学と学部そのものであるのだから・・・
私は結果的に、何も・・・・役割を果たせなかったということのような気がしてくる。知と技術をどのほうこうに用いるべきかということが、この10年でさらに忘却され、目先の利潤に利用されそこなっただけなのだろうか。

絶望的に気持ちになるのはこの意味であり、なんか直接ものを言う機会でもまるで異端審問のような心持になるのはいまも変わらない。
わたしたちはプラトンが提示した問題をパラフレーズするだけではなく、自らの問題として引き受けなければならない。・・・・・・
死と生命、身体のその後についてはベルクソンが詳しく論じている。