http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010091401000156.html
不況下なのに凶悪犯罪は減少 アメリカ 専門家は「謎」(東京新聞)

こうした記事の見出しと内容からは、凶悪犯罪は貧困と同時に語られるものとしての先入観のようなものがあり、その主体は「移民」「有色人種」「貧困・失業」といったような「レッテル貼り」的な見解がよく反映している。
もともとアメリカの新聞メディアの発展は、移民と少数コミュニティにニュースと連帯感(合衆国=帝国的に必要な)を保つツールとして発展した部分がある。これはシカゴ学派などで広く知られているものである。
新聞はもともとフランス19世紀に広く普及し言論の場として公共圏を形成した時代があるが、この時代の新聞購読料は今のような安価なー数千円といったようなものではない。(それすらも「高い」というのが現代的な感覚だろうが)こうした購読式の新聞の一部売りをはじめたのはアメリカであってそれこそが1ドル程度で購入できる情報メディアだったのだ。アメリカンポップアートと広告は切り離せないが初めからこうした経緯がある。

犯罪全体は貧困と関わりあうかもしれない。しかし貧困が凶悪犯罪のもとと考えるのはあまりに単純思考すぎる。どちらかといえば凶悪犯罪は、生活そのものには困らない、中産層の白人男性にみられるのであり何らかのフラストレーションがその過剰さのはけ口となることのほうが多いのではないか、こうした見方もまたレッテル貼りの部分があるが、重要なのは、本当に生活に困窮したら犯罪や逸脱というような行動には顕れにくい。だからこそ、ピエール・ブルデューが指摘したように、不況や失業といった問題には、現在何か行動できる余裕がある職にある者たちが他人事という意識を捨てて取り組むべきなのであり、本当に活力を失いつつある人に自力で何か変えてみろというのは、責任転嫁や無責任な物言いなのである。

とどのとまり、現在起こりつつある出来事はおそらく現況は15年前にあるのだ。世代間格差という言葉は、前の世代に準備される。そして運よく、その原因を作り出しながらも、恩恵に預かってきた者たちは、自分たちの生活しか考えようとしない。自分たちの預かった恩恵が前の世代によって準備されていた部分も、自分たちの実力であると勘違いする。

不況ということばの裏腹にある「好景気」という言葉のほうが不気味ですらある。不況はあるとしても同時多発的には興らない、原因は過去にある。

私がいつも奇妙に思うのは「市場」や「景気」といった実際には実体のないものを絶対的な「いきもの」のようにメディアや多くの人たちが語ることである。まるでホッブスのいうリヴァイアサンのような「景気」とはなにを指すのか。市場とは顔のない(みえない)投資家たち(要するに不労所得生活者)の気分によって左右されている。雇用されているひとたちはその顔いろ、数字の上下に一喜一憂する。メディアは、広告主である企業と投資家の気分と機嫌をそこなうようなニュースは報道しない。報道は隠すために、争点ではなく騒点を作り出すのである。
発言や演説がテキストとして全文掲載されるぶん、まだ新聞のほうがテレビよりは意味がある、とはいえる。(実際現在東京新聞を購読しているのだが)だが、こうした見解をそのまま報道してる限りにおいてはあまり差異はない。

中世は「神」が絶対化されていた。
現在それに変わる権威のようにあるのは「市場」と「景気」ではないだろうか、と感じることが多い。権威とは従わざるをえないように促す力である。
本当の支配とは、常に見える形にはないことが多い。
そして本当の支配力は、常に御しえるような、意にそぐわなければひきづりおろすことが可能な(メディアと世論を利用して)代表者を据えるのではないだろうか。

ところでもう一つの他者性とは、アメリカ社会でいうところの「有色人種」「移民」という言葉で語られるものが日本では「外国人参政権」などをめぐる意見で透けて見える。歴史的にいって合理的・多文化的で長く存続できた国家は「出自」を問題にはしない。逆に出自(階層・民族など)だけを価値として扱うようになったときその国家は零落する。すべてがそうだとはもちろんいわないが、何かの独自性を保つために、情緒的、感情的な主張ほど見苦しいものはないように思われる。

我々が認識しないとならなのは、よりやすくてよりよく、より多くを所有したい、買いたいという消費者の行動がすべての雇用を狭くしている部分があるということだ。効率化とは多くの場合に人件費の節約になることを考えてみればよい。本当に人の手が必要なところに携わっている仕事の賃金がどれほど低いかを考えてみればよい。私が非アリストテレス主義なのは、自らは動かずに他を動かす最高存在をモデルとするヒエラルキー的な社会構造が善いとは思えないからでもある。大企業ー下請けという構造も、設計と製造は別という考え方もまたそういう理論に基づいている。こうした構造から利益だけを多くの人が求めようとすれば、おのずと切り捨てられる層が増えるだろう。しかし重要ななのはその層もまた自らはなにもせずに何か利益だけ得られればよいとう考えと行動にある限りはなにもかわらないだろうということなのだ。ペシミスティックになってはいけないのだろうが、楽観的にもなれない。

自分の足元(状況)をよく確認することが重要だが、それと同時にその逆の方向へも「振り向かなければ」ならないのではないだろうか。

「常識」とは何かそのままで誰かにとって「利点」があるから利用されている部分がある。だから常識は「保存」される。なぜか日本ではそれは「慣習」とはいわない。コモンセンスではなく、「世間の常識」などと語られる。
「政治と金」などとトピックがたつが、私はその問題点は本当は「行政と金」の問題のすり替えなのではないかと思うことがある。
なぜかというならば、官僚制とは形と時代を変えた「貴族制」の面があるからだ。特に上述したような「自らはなるべく動かずに他を動かすような」構造の場合は。日本ではフランス革命時の第三身分は「平民」だと教科書的には書いてある。だが実際には、第三身分は「平民=一般市民」ではない。王の役人の層である。こうして歴史を「考える」科目でなく、記憶させ意味自体を問わない科目にしているカリキュラム自体が、恣意的ですらある。